2007-01-01から1年間の記事一覧
「死に直面した人の心を最も苦しめることの一つは、『果たして自分の人生に意味があったか』という問いである」と指摘されます。それを否定的に答えるなら、恐れと失望・絶望が残るだけです。それでは、肯定的に答えることのできる「夜明けを望む道」がある…
主イエスのメッセ―ジを要約するなら、「恐れるな(ルカ2章9〜10節)」、「愛している(ヨハネ3章16節)」、「共にいる(マタイ1章23節)」に尽きます。 クリスマスの出来事に登場する人々は、何らかの形で不安や恐れを持っていました(マタイ1章20節、…
今日は、教会暦では待降節第3主日となっています。待降節が何のために定められているのかと言えば、そこには二つの意味があると思われます。 一つは、過去における神の御業を記念することであり、二つには、来るべき神の御業を信仰と希望を持って待つと言う…
「受胎告知」「処女降誕」の事実を前にしたマリヤのために、神が備えてくださったザカリヤの妻エリサベツは、『・・・信じきった人は、何と幸いなことでしょう』(45節)と祝福しています。主なる神を信じて立つところに幸いな生涯があります。1.どのよう…
人は、待つことにおいて試されます。待つことは、一つの偉大な力です。聖書中には、神が働いてくださるのを待てずに、人間的に動いて、神の祝福を得そこなった例が多く語られています。しかし、イエスのご降誕の記録は、神のみことばの約束を信じ、待ち続け…
パウロは、1章から2章にかけて、繰り返し十字架について語ります。わたしたちの救いの根拠は十字架以外にないことを徹底して語っています。当時の人々は、十字架しか語らないパウロに対して、キリスト教はそれだけなのかと嘲笑っていたのです。今も人々は…
旧約時代からイスラエル民族は、春の小麦の収穫を感謝することや(五旬節)、秋の葡萄の収穫を感謝する(仮庵の祭り)という習慣をもっていました。本箇所は、そうしたことが語られているのですが、主なる神の「豊かな救い」に対する信仰を新たにする時でも…
本章からは、福音宣教の新しい展開が見られます。神の不思議な導きによってユダヤ人から異邦人へと福音の扉が開かれ、教会に加えられていきました。コルネリオとペテロの出会いを通してコルネリオの回心記が、異例ともいうべき長いスペ―スで語られています。…
終末における主イエス・キリストの再臨は、確実なことであると聖書は証言しています。それは、神の国が成就する喜びの時であり、同時に神の審判の時です(28〜30節)。『ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません・・・』(32節)。誰にも…
一般的な考えでは、人間は「たましいとからだ」の二つの部分から成り立っているとされています。しかし聖書では、霊と、たましいと、からだの三つの部分から成り立っていると解いています。先の聖書のパウロの祈りがそれを明らかにしています。 日本の一軒家…
『ルダ』の北西17キロにある地中海沿いの港町『ヨッパ』での出来事です。そこに『タビタ』という『女の弟子』すなわちクリスチャンが病気で死にました。キリストの弟子たちは、ルダでのペテロを通しての奇蹟を伝え聞いていたのでしょう、彼に告別式をして…
コリント人への手紙第一の第1章の学びを終えて、今日から第2章に入りますが、1章は「誇る者は主にあって誇れ」という言葉で終わっています。 人は詰まらないものを誇りとする者であり、また誇りが無ければ生きられない存在でもあります。最初の議論の結論…
時間を創造し、時間を支配し、時間の中にその計画を狂いなく実現されるのは、全能の神の他におられません。人間を罪と死の支配から贖われた愛の神は、この世界を大改造して新創造される時まで、歴史は着々と進行しています。このことに眼が開かれるなら、ス…
私たちは人生の中で、色々な人に出会い、様々な経験にめぐり遭います。その出会いと経験によって、互いの人生は変わってきます。多くの出会いが「嘆きとの出会い」であることが多くありますが、そうした中で、誰しも根本的な出会いと言える「キリストとの出…
コリント人への手紙を学びはじめて、いま何を感じて居られるでしょうか。わたしの心を駆け巡っているみことばは、「キリストの十字架がむなしくならないために 1章17節」です。果たしてこの一点に思いを定めて生きてきただろうかと思い巡らしています。そし…
キリスト教宣教の第1世紀においても、この21世紀においても、人々が十字架を愚かとすることに変わりはありません。パウロ自身、かつては十字架を愚かとしていました。しかし、今や十字架こそが神の力だと言います。それに対して、「知者はどこにいるか」と…
ヨシュアの良きパ−トナ−であったカレブの人柄と生涯の鍵となるみことばは、『わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので』(民数記14章24節)との神のおことばです。Ⅰ.違った心を持っていた 《忍耐の心》がありまし…
マルコの福音書13章は、ヨハネの黙示録と比して「小黙示録」と呼ばれ、主イエスが「終わりの時」について事実上最後の説教を語られたところです。 「終わりの日が来る」とは、キリスト者だけではなく、今日でも多くの人々が受け止め、受け入れ始めている危…
パウロがコリント人への手紙で最初に取り上げた教会の問題に対して、「十字架がむなしくならないために 17節」と言っています。口語訳では「無力なものになってしまわないため」と訳されています。1.十字架がむなしくならないために このことは、この手紙…
モ−セの従者ヨシュアは、神の民に約束の地を与えるという神の働きに邁進しました。その約束のものは、信仰によって得ていくのであり、そのためには戦いがあり、それに対しても信仰によって勝利していくことを語っています。そんな彼の偉大さの秘密は、ひとえ…
キリストの体である教会は、いのちと感情を持った人格的な存在です。従って、喜んだり、楽しんだり、望みに溢れたり、反面失望したり、悲しんだり、痛みを感じることもあります。だからこそ、『励まされ』て前進していく必要があるのです。 『こうして教会は…
主イエスと律法学者の対話(28〜34節)、律法学者についての主イエスの言葉(35〜37節)のつながりの中で、律法学者の暗い面が証言され(38〜40節)、それと対比するように明るい面、すなわち主イエスが良しとされる出来事が語られています(41〜44節)。こ…
聖書は暴露本のように遠慮なく語るところがあります。ピリピ人への手紙の中にも、教会の中の争いについて語るのを見ます。暴露本のようにと言いましたが、聖書の場合、暴露することが目的ではなく、そこから福音を語ることが目的であり、結果として回復と平…
柏原教会創立75周年。今日は、教会にとってまことに喜ばしく記念すべき日です。この教会は、宣教の情熱に燃えた婦人宣教師によってこの地に伝道が開始され、その情熱は歴代の牧師・信徒の皆さんによって今日まで、しっかりと継承されています。 さて今朝は…
神の選びは、何人にも説明できない、合理的な説明を越えた神のなさる不思議な出来事であり、出会いです。 サウロ(パウロ)は、すでにステパノの説教を聞いていたとき、『この道の者(キリスト者)』(2節)を危険分子と考え、全力を挙げてたたきつぶそうと…
人は朝、昼の制限の中に生かされ、その生涯は日ごとの継続ですから、一日ごとに新しい意味の課題に直面しています。それに対して、生きておられる神の恵みは、『朝ごとに新しい』、日ごとに新しいのです。本質は一緒の恵みなのですが、日々に新鮮であり、そ…
建前でなく、本気になって自分を聖書の光に照らしていこうとする時、どうしても本箇所の二つの命令と対決しなくてはならないことに気づかされます。いな、ここにたどり着かなければならないということを余儀なくされます。 主なる神を愛すること、自分を愛す…
あるテレビ放映で、退職したご主人たちのアンヶ−トの集計が紹介されました。その中で、退職してからショックを受けた妻の言葉のベストテンというのがあり、「仕事どうするの?」「一日に三度、家で食事するの?」「散歩でもしてきたら!」「趣味でも持ったら…
主なる神は、サマリャにおいて、ピリポを用い目覚しい福音伝道の働きを進められました。そうかと思うと、今度は沿岸地方のガザでひとりのエチオピアの人に福音を伝え導くというようにされました。約束どおりに(1章8節)、エルサレムからサマリャを経て、…
ここまで(39章)、どちらかと言えば「神のさばき」を語ってきたイザヤが、こからは(40章)「神からの回復の約束、神の救いの恵み」が宣言されています。その冒頭が『慰めよ、わが民を慰めよ』とのメッセ−ジです。これは、イザヤからすれば約二百年後の…