柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「待つ力」 ルカの福音書1章5-25節

 人は、待つことにおいて試されます。待つことは、一つの偉大な力です。聖書中には、神が働いてくださるのを待てずに、人間的に動いて、神の祝福を得そこなった例が多く語られています。しかし、イエスのご降誕の記録は、神のみことばの約束を信じ、待ち続け、忍耐し続けた人々の証し集です。


1.主の前に黙して待つ 5〜18節
 ザカリヤもエリサベツも共に祭司の名門の出であり、神の前にも人の間にあっても優れた夫婦でしたが、子どもに恵まれませんでした(5〜7節)。しかし彼らの晩年に起こった出来事は、神の御手によってそれが恵みに変えられたのです。このように、信仰の世界は、最後まで信じ従っていくことによって、はじめて分かることが少なくありません。
 ザカリヤは一生に一度あるかないかの光栄ある務めを得て、聖所で香をたき祈りをしました(8〜10節)。そのとき、神の不意打ちとも言える妨害によって、想定外の出会いが生まれ、神の恐れの支配の中に置かれました(11〜12節)。
そして、御使いの告知もまた想定外のことでしたので、ザカリヤの応答も当然すぎるほどのことでした(13〜18節)。
 注目したいのは、『あなたの願いが聞かれたのです』(13節)とのザカリヤの願いとは何かということです。子どもが与えられないことは神の祝福を得ていないと思われがちであったことに対して(25節)、彼らはそれまで長い間授かることを祈り続けたことでしょう。かと言って、今や年齢的に授かることが不可能との応答をしているザカリヤからして(18節)、聖所でそのことを祈ったとは思われません。祭司としての祈りの願いは、神の民の救いでした(2章25節)。
 長い間祈ってきたことは神に聞かれなかっただろうというザカリヤの不信に対しても、神はそれに答えつつ、それだけではなく、やがて生まれてくる子どもには神の民の救いに結びつく道備えをする使命が託されていることを明らかにされたのです。しかし、そのことが分からなかったザカリヤが驚き、信じられないと叫ぶのは、私たちの姿でもあります。神は私たちの祈りを忘れるお方ではなく、人々の救いのために祈り以上のことを成し遂げられるのです。ですから、私たちが神の前に取るべき姿勢は、主なる神が御旨をなさることに対してただ「黙して」待つのみです。
 

2.主の支配に服して待つ 19〜23節
 さて、自分の理性や経験で受け止める範囲内で神のみわざを考えてしまうという「不信という闇」に支配されたザカリヤでした。『神の御前に正しく』歩んでいたのですが、神の御旨に対して信仰の応答ができず、神のご用が果たせない限りにおいて、神は沈黙させなさいました(20〜22節)。神はザカリヤを見捨てられたのではありません。その沈黙のとき、同時に、神か彼の内に著しく働きかけられたときでした。不信を悔い改めて神への信頼を回復するときでした。その神のお取り扱いに、無条件に服していくことにより、ヨハネの父となり、御子イエスのご降誕に仕えていく一人とされたのです。
 私たちは、イエス・キリストご自身を信じ、信頼し、委ねていくという基本的なことはさせていただきつつも、個々の具体的な事柄において、疑いを抱く、不信の虜となるということがあります。そのようなとき、私たちが取るべき態度は、黙して主なる神とそのみことばの支配に服するのみです。
 信じて待つ中で、何をさせていただくのでしょうか。主イエス・キリストに向かって生きるように『合図を続ける』ことです(22節)。口がきけないほどに、自分の弱さ・貧しさ・小ささを覚えつつも!

                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)