柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団の「大阪柏原教会」の礼拝メッセージ要旨

「倒れても起き上がる」 エレミヤ書 8章4節

 ことわざに「七転び八起き」と言う言葉があります。一説には仏教から来ていると言われますが、私は聖書から来ていると思います。

 箴言24:16に「正しい人は七度倒れても、また起き上がり、悪しき者はわざわいでつまずくからだ。」とあります。起き上がり小法師、だるまさんですが、 達磨だるま大師がモデルと言われています。

 実は、イエス様の弟子、トマスがインドに行き福音を伝え教会を建てた。彼は祈るとき偶像に向かって祈っていたのではなく、壁に向かって祈っていた。それが元になっていたのではないかとも言われています。

 真意は定かではありませんが、神様は、私たちが倒れても、立ち上がらせて下さる。
力を与えて引き上げて下さるのです。ですから、何度倒れても大丈夫です。

 

1,私たちを倒すもの


①外圧

 人生には試練があります。自然災害、地震など。仕事を失う。病気にかかる。しかし、神様は試練と同時に脱出の道をも備えて下さいます(Ⅰコリント 10:13)。


②つまずき

 人は大きなものにはつまずきません。小さなものにつまずくのです。
 人の噂話や、中傷。現代では、SNSで誹謗中傷され、自殺した人もあります。自信過剰が反ってつまずきの原因になることもあります。いわゆる心が折れてしまう。人の言ったことがこころに残り、それが否定的な思いとなって、自分はだめだ。そして倒れてしまうのです。


③心が弱くなる

 心が喜びに満ち、生き生きとしているなら、へこたれることはありません。倒れることはないのです。でも、心が萎え、希望がなくなると倒れてしまうのです。自分の力では立ち上がることができなくなるのです。

 それではどうしたらよいのでしょうか。
 預言者エレミヤは、「帰って来るものではないか。」と言いました。どこに帰って行くのでしょうか。それはイエス・キリストのもとに帰ることです。「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と私たちを迎えて下さるのです。キリストが疲れて倒れ た私たちを引き上げて下さるのです。

 

2,力が与えられる

 

 苦難の人、ヨブはこう言いました「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、幹が枯れても、水を得て苗木のように枝を出す。」 (ヨブ 14:7~9)

 キリストは十字架にかけられ死なれましたが、死からよみがえられました。死に勝利されました。その復活の力が、私たちにも与えられるのです。

 そしてイエス・キリストは、私たちの心を新しくし、人生やり直しができるのです。
「だれでもキリストにあるなら、新しくつくられた者である。古いものは過ぎ去った。
見よ、すべてが 新しくなったのである」 (Ⅱコリント 5:17)。

 かつて、車を盗み逮捕された人が、保釈後、どうしてよいかわからずさまよっていた時、教会に来ることができ、イエス・キリストを自分の救い主と信じました。すると、心の罪が赦されて、新しい出発をすることができたのです。罪の誘惑から守られ、二度と悪いことをしない。すべてが新しくなったのです。

 私たちもキリストに立ち返るとき、たとえ倒れて起き上がれなくても、キリストが起こして下さるのです。そして、人生の重荷を一緒に背負って下さるのです。

 この方にすべてを委ね、愛されて心に平安と喜びを与えていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「あわれみを与える神」 イザヤ書 30章15∼18節

 今日は、召天者合同記念礼拝です。天にお召されになった方々を偲びつつ私たちに永遠のいのちを与え、天に希望を持たせてくださる方に目を向けさせていただきたいと思います。

 イザヤは2750年ほど前のユダヤ預言者でした。イスラエルの国は今も小さく四国ほどの面積です。北のアッシリア南のエジプトに挟まれ、国が滅ぼされるかもしれない状況にありました。私たちも困難に遭ったときに誰に頼るべきか明らかにされます。


1,神に立ち返る


 イスラエルの聖なる方、神である主は「立ち返るなら、あなたは救われる」と約束されました。

 この事は、新約聖書ルカの福音書15章に出てくる、放蕩息子の話に通じるものがあるのではないかと思われます。裕福な家庭の次男は、父親から生前贈与を受けて大きな町に出かけました。しかしまじめに働かず、財産を湯水のように使い、一文無しになりました。誰も助ける者はいませんでした。ついには豚のえさを盗んで食べるまで落ちぶれてしまいました。

 その中で彼は、我に返り、父親の家にはたくさん食べ物がある。父の元に返ろう、そして神様に対してもお父さんに対しても罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてくださいと謝ろう。そう決心して父親の元に返ったのです。

 なんとイザヤは2700年以前も前に、すべての人は真の神様に立ち返るべきと教えていたのです。その時の状況も、北のアッシリア帝国 に攻め滅ぼされると注意をしていました。しかし、そのことに真摯に耳を傾ける人は少なかったのです。今日も同じではないでしょうか。


2,人の罪


 イスラエルの民は神に助けを求めるのではなく、人を当てにし、人の助けを求めました。南のエジプトに応援を求めたのです。馬という言葉は、軍隊の力を表すと言われています。エジプトの軍隊を当てにし、苦難から逃げようとする姿があります。しかし、それは勝利にはなりません。

 いくら逃げても追っ手が来る。ついには山の旗ざお、旗のようになる。つまり、それを立てた人は一人もいなくなったと言うことです。この世の力、権力におもねる人は、この世がすべてです。この世はやがて滅びてしまいます。

 私たちは、この世に希望を持つものではなく、未来に、そして永遠に希望を持つものでありたいと思います。


3,神は待っておられる


 「それゆえ主は、あなた方に恵みを与えようとして待ち」とありますが、神様は私たちを天国で待っておられるのです。この世で滅んでしまうことを願ってはおられません。あの放蕩息子は父のもとに帰りました。それは一つの天国の姿です。ぼろぼろになって帰ってきた息子を父は抱きしめました。ずっと待っていたのです。父親は見つけたとき、立ち上がり走り寄ったのです。最上の服を持ってきて彼を包み込みました。まさにあわれみです。

 私たちも真の神様に立ち返るなら、待っておられます。そして私たちに駆け寄ってくださり抱きしめてくださいます。そして私達の顔から涙をぬぐい去ってくださいます。

 それは私たちが不真実でも神様は常に真実だからです。神様の真実とは、たとえ私たちが罪を犯しても赦して下さる。神の儀すなわち十字架の救いがあるからです。

 私たちも神様に愛され、心に平安と恵みをいただいて、天の御国に凱旋させていただきたいと思います。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「神に感謝す」コロサイ人への手紙 1章3∼8節

 この手紙を書いたパウロは、コロサイのクリスチャンには会ったことはなかったかもしれませんが、彼はローマの獄中にあったとき彼らのために祈っていました。私が英国に行ったとき、ある地方の町でクリスチャンの有志の祈り会があり、そこでは日本の田舎町にある教会のために祈っておられたのです。大変私は驚きましたが、知らない人が知らない人のために祈り、そして救われる。天国で、救われた人が祈っておられた人と会うことができる。これは大きな感謝だと思います。

 

1,感謝の要因


 なぜパウロはコロサイの人たちを覚え感謝したのでしょう か。三つの原因があります。一つは信仰です。「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰」とあります。イエス・キリストを信じられるようになった。おそらくコロサイも偶像礼拝の盛んなところであったと思います。そんな中で、イエス・キリストこそ真の救い主神であることを信じることができた。救いに与った、これがパウロの感謝です。私たちもイエス・キリストを信じ救われる人が起こされると感謝すると思います。

 二つ目は、愛です。「聖徒に対してあなた方が抱いている愛」自分が愛されたいという愛ではなく、自分が積極的に愛するという愛です。アガペーの愛、よく神の愛と言われることがあります。神様が自分を限りなく愛して下さる、その愛をもって相手を愛することができるのです。

 三つ目は「天に蓄えられている望み」です。これは希望です。自分はたとえ死んでも天国に入れるという望みです。そしてそのことは、自分のこの卑しいからだをも神様は復活の栄光の姿に変えて下さるという希望です。

 私たちの天国の体は年取ったままの体ではありません。漫画で白髭の頭のはげた金の輪っかの付いたおじいさんが出てきますが、そうではありません。もっと若い元気な姿に神様は変えて下さるのです。その希望が与えられるのです。

信仰と希望と愛、この三つのものがコロサイのクリスチャンに与えられて、パウロは感謝したのです。


2,福音の実り

 5節後半に「福音の真理のことばによって」6節「この福音は」とありますが、福音とはよい知らせのことです。簡単に言うなら、「この薬を飲んだ。そしたら病気が治った。」喜びです。感謝です。聖書に出てくる福音とは、救いです。神様が永遠の滅びから救って下さる。それは真に、受ける値打ちのない者に与えられる「神の恵み」でありイエス・キリストの十字架によって罪が赦され、永遠のいのちを与えていただけることです。

 しかもこの福音は、実を結んでいます。さらには成長しています。キリストの救いは今も全世界中に知らされています。世界人口の約 32% 26億人と言われています。それはただ数のことではなく、個人においても聖霊による実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を私たちの心に与えて下さるのです。

 その実例としてパウロは「愛するエパフラスから福音を学びました」と言っています。彼はパウロの同労者伝道者であり、パウロの薫陶を受け、コロサイで伝道したと思われます。何よりもキリストに忠実に仕える人であり、コロサイの人たちは、エパフラスが伝えた福音すなわち、イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、神に愛されている、その愛がさらに御聖霊によって心に満たされていることを証ししたのです。パウロはこの事をローマの獄中で聞き、神をあがめました。私たちも同じ福音を聞いています。神様は私たちを豊かに愛して下さっておられます。私たちも神様に心から感謝をささげましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「心の明かり」ルカの福音書 11章33∼36節

 私たちを取り巻いているこの世には、暗いニュースが多いのですが、その解決は外側よりも私たちの内側が問題なのではないでしょうか。
35節には「自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。」と勧めがあります。

 この世は確かに暗いニュースが多いのですが、神様は私たちに光を与えて下さいます。それはイエス・キリストです。キリストは「わたしは世の光です。わたしに従って来る者は闇の内を歩まず、いのちの光を持つ。」と約束して下さいました。


1,光が見えるようにする

 私たちはまず、自分の心の中に光をその源であるイエス・キリストを受け入れることです。心に信じることです。そうするなら、私たちの心は明るく照らされます。
心が明るくなり、よろこびが内側から出るようになるのです。そして、その喜びを他の人にも分かち合うのです。

 光を照らすとき、寝台の下や、升の中に入れる人はありません。おそらく上の方に置くでしょう。そうすれば、部屋全体が明るくなります。ですから、この炉の中に与えられるイエス様の喜びを、他の人にも与えることです。自分の失敗が赦された、そう信じるなら他の人の失敗や過ちも赦すことです。ただ妥協するのではなく、イエス様に赦していただいた、その愛をもって人を赦し、受け入れるならその喜びはますます、広がって行くのではないでしょうか。


2,目を健やかにする

 イエス様は「からだの明かりは目です」と言われました。目は心の窓、とも言われます。目によって、その人が元気なのか、悲しんでいるのかわかることがあります。心が元気なら、目も生き生きとしています。目が曇っているなら、心も疲れているのかもしれません。目は口ほどにものを言います。私たちの心の状態を映し出す、鏡のようなものです。

 ヨハネ福音書8章で罪を犯した女の人が連れてこられ、イエス様にどうするのか尋ねましたが、イエス様は「まず罪のない者が、石を投げつけるがよい」と言われました。誰も石を投げませんでした。それは、一人も神の前に「私には罪がない」と言える人は一人もいないのです。

 私たちは罪を犯すと心が暗くなります。元気がなくなります。これが見つかったらどうしようと不安になります。罪がわかったら裁かれる、心が恐れにとりつかれます。

 私たちの心の中にある罪を解決しなければなりません。その罪を赦して下さるのはイエス様です。私たちの罪のために十字架にかかり、血を流して罪を赦して下さいました。あの姦淫の罪を犯した女の人をもイエス様は赦されたのです。「これからは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。罪は私たちの心を暗くするものです。体も弱ってしまいます。

 私たちが元気に生きるためには、イエス・キリストによって、心の罪が赦され、わたしは世の光であると言われるキリストによって、心が輝き照らされることです。 そうするなら、私たちの心も光に満たされ、喜びに満ちあふれ、輝いて生きることができるのです。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「勝利の秘訣」ローマ人への手紙 8章35∼39節

 今年もはや2月となりました。ウクライナで戦争が始まって丸1年となります。ますます混迷を深めていくような状況にあります。日本でも北朝鮮からのミサイル問題や、台湾と中国の関係も不安な要素です。どこに私たちの心の平安そして圧倒的な勝利を持つことができるでしょうか。


1,神の愛から引き離すものはない

 この世の中には、35節にでてくる「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」そのような苦しみがたくさんあります。特に今の時代は、苦悩する時代であると言えると思います。教会でも、時々悩みの相談があります。もちろん私は神ではないので、直接解決することはできません。

 しかし、お祈りすることはできます。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。」とパウロは言いました。キリストは私たちを愛される方です。聖書の中でも、イエス様は親しくしていたラザロという人の墓の所に来て、涙を流された、とあります。神の子イエス様でさえも愛のゆえに涙を流されます。

 アルゼンチンの有名な伝道者が集会の後、女子大生から質問を受けました。神もキリストも十字架もインチキだとくってかかってきたのです。もういくら説明してもだめだ。あきらめて「今日はここまでにしましょう。」と言った時に、「ちょっと待って下さい。少しお祈りさせて下さい。」と言ったそうです。彼は跪いて祈りました。すると涙が出て、止まらなくなり、涙を流しながら祈ったそうです。そして、目を上げると女子大生は立っていました。すると「今まで誰一人、涙を流して祈ってくれる人はいなかった。」と言って彼女は泣き崩れました。さらに「先生、もっとイエス様のことを話して下さい。信じます。」と言ったそうです。

 苦難や苦しみ、悩みはあります。しかし、イエス様は私たちのために、涙を流し、さらには十字架の上で血を流し、私たちの罪を赦し、私たちを愛して下さる方なのです。誰も私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。


2,愛して下さる方によって勝利者となる

 神様を信じても、苦難や苦悩、迫害や危険はなくなりません。「屠られる羊と見なされています。」詩篇 44:22の引用です。「神様、助けて下さい。」との願いが込められています。私たちも悲観に暮れて、行き詰まるとき助けを求めることができるのです。

 パウロは、「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」と確信しているのです。ですから私たちも悩むとき苦しむとき、私たちを愛し て下さる方がいる、そのことを信じるときに圧倒的勝利が与えられるのです。弱さに打ち勝つことができます。苦難にも勝利することができます。

 田原米子さんのことを思い出します。お母さんの死を悲しみ鉄道自殺を図りましたが、奇跡的にいのちは助かりました。しかし、両足、左手、指二本を失いました。生きることが苦しみとなりました。そんな中福音に接し、十字架のイエス様は自分のために死んで下さった。そしてよみがえって下さった。その信仰により、右手指三本しかない、との考え方から、三本もあると心が変えられ積極的な生き方に変えられたのです。

 苦しみの心、悩む心をイエス様は癒やされます。そして、十字架の血潮によって、苦しみ悩みすなわち罪を洗い清めて下さるのです。私たちもイエス様の愛を受けて圧倒的人生の勝利者とさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「信仰による勝利」ヨシュア記 5章13∼15節

 私たちは人生の中で何かを計画しそれを実行しようとするときに、大きな壁を感じることがあるかと思います。その壁を見たときにもうこれはだめだ、不可能だと思い、意気消沈してしまうかもしれません。
 

 しかしその計画が神様の御心にかなうものであるなら、たとえ大きな壁であったとしても、打ち破ることができるのです。その勝利の秘訣を、ヨシュア5章13節から15節を通して見ていきたいと思います。

 

1,一人の人の現れ

 ヨシュアは、モーセの後継者でイスラエルの民を荒野からヨルダンの川を渡り、エリコの草原に導いてきました。しかし、その前方には要塞都市であるエリコの城壁がそびえ立っていました。エリコは交通の要所で、交易で栄えた町です。そのため周りから町を奪われないように、城壁で固められていたのです。しかしその町は、神様から離れて堕落した町でした。滅ぼされるべき所でした (2章)。しかし実際には堅い城壁のため人の力では不可能なことだったのです。

 そこに、抜き身の剣を持った一人の人が現れます。彼は自ら「主の軍の将」と名乗ったのです 。これを神の御使い、天使と受け取る方もありますし、私はイエス・キリストの一つの姿ではないかと思います。なぜなら、「抜き身の剣」とはいのちを奪う、裁きの象徴です。イエス・キリストは、「私は天においても地においても一切の権威が与えられている。」と言われたのです。生殺与奪の権がすべて、キリストの手の中にあるのです。最期の審判者です。この方がすべてを裁かれます。

 その時、ヨシュアは抜き身の剣を持った人に近づいたのです。身の危険を感じて逃げることもできたでしょう。しかし彼は逃げなかったのです。

 それどころか、歩み寄って近づいて、「あなたは味方ですか、敵ですか」と尋ねているのです。命がけのことであったと思います。しかし、それが彼の信仰であり、イスラエルの民のために、彼らが罪を犯して滅ぼされそうになったとき、破れ口に立って祈ったモーセと同じ信仰だったのです。ですから、彼はモーセの信仰を受け継いだ人でした。


2,ヨシュアの信仰

 その人が「主の軍の将」と言った時に、ヨシュアは顔を地に付け伏し拝んだのです。
神以外のものを拝んではならないとあるのですが、まさしくこの方は礼拝されるべき方、キリストの一つの現れとなって、軍旅の将として こられた方なのです。そしてヨシュアは主に尋ねたのです。何をなすべきか、神様の前にへりくだったのです。

 その時に主の軍の将は「あなたの足の履き物を脱げ」と命ぜられました。

 ここで、履き物を脱ぐとは特別な意味があります。それは、無条件降伏です。

 敵を捕虜にするとき、履き物を取り上げます。荒れ地では、痛くて自由に身動きがとれません。そして履き物を脱ぐとは、明け渡すことです。すべてをお委ねすることです。軍旅の将にお任せすることです。この方が戦ってくださるのです。そして、必ず勝利を与えてくださいます。

 軍旅の将はイエス ・キリストです。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」エリコは真に、この世の姿を象徴するものではないでしょうか。この世の濁流に呑み込まれ押し流されることもあるかもしれません。しかしキリストは世に勝利してくださいました。十字架によって、私たちを罪から贖い、この世の災いから救い出してくださったのです。

 キリストこそ私たちを勝たせて下さる方です。

 ヨシュアは主の軍の将にすべてを委ね、明け渡し、エリコに勝利しました。
私たちも、イエス・キリストにすべてを明け渡し、委ねて、世に勝利する者とさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「神の恵みと平安に生きる」 コロサイ人への手紙 1章1∼2節

 この手紙は、ローマの獄中にいたパウロがコロサイにいるクリスチャンたちに宛てた手紙です。パウロはそこに行ったことはないようですが、その町の出身であったエパフロディトが、エペソで救われ、コロサイの町にイエス・キリストの救いを伝えたようです。

 コロサイという町の名前ですが、巨大な像、偶像という意味があります。そのような像があったのかもしれません。エペソからは160㎞東のトルコの内陸部にありましたが、商業の町でギリシャ人やユダヤ人も来て栄えていたようです。

 ですから文化的にギリシャ哲学やユダヤ教法主義的な生き方の影響もあったようです。今日でも多様化の時代であり、様々な考え方生き方がありますが、何が自分の生き方で大切なものか、そして何が自分を生かしてくれるのかをよく考えなければなりません。

 この手紙には、神の奥義であるキリストが語られていると言われます。
キリストがどのような方か、私に何の関わりがあるのか、この手紙を通して明らかにしていただきたいと思います。

 パウロは、「恵みと平安があなた方にありますように」と言っていますが、私たちにも語られているのです。


1,神の恵み

 神の恵みは「無償の贈り物」です。無代価で、受ける資格がないのに与えられた。

 パウロはかつて、キリストを迫害する人でした。ナザレのイエスを神とは信じられませんでした。ところがクリスチャンを迫害する中で、復活のキリストに会ったのです。そして彼は、復活、死からのよみがえり新しいいのちを目の当たりにしたのです。まさに驚きであり、目から鱗、心の目が見えるようになったのです。それは真に神様の恵みでした。自分の過ちがすべて赦された。キリストの愛、そして優しさや親切、思いやり、彼の心にキリストの愛が注がれたのです。

 彼は嬉しくてたまりませんでした。ですから、彼はローマの牢獄の中にあっても、神様に感謝をささげ、そこで自分に会う人にもキリストの愛を伝えていったのです。

 実は、この手紙は、獄中で会った逃亡奴隷、オネシモがコロサイへ持って行ったと言われています。彼は変えられました。逃亡奴隷は捕まったら殺されます。しかしパウロはピレモンへの手紙で、彼を「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っています。パウロを通して、オネシモもキリストの愛を受け入れ、まったく変えられたのです。愛の人、そして忠実な人となり、罪を悔い改めてキリストに従う人に変えられたのです。そして、この手紙をコロサイのクリスチャンに届けたのです。

 私たちも神の恵みによって、人生変えられます。キリストが一切の負債を十字架で負って、罪を赦して下さる。これほど大きな愛はありません。その愛が私たちに与えられるのです。


2,神の平安

 愛ともう一つ大切なものは平安です。

 この平安は特別な意味があります。神との和解、神様が自分の過ちを赦して下さることです。パウロは迫害の罪が赦されました。オネシモも逃亡の罪が赦されたのです。それは大きな喜びでした。罪の代価である死からの救いです。その救いに与ったのです。ですから、心は平和です。平安が心を支配するのです。平和に満ちるのです。心の平安は、人との融和を生み出します。自分が赦された、だから相手も赦すことができる。キリストが私を赦して下さった。その心が、パウロにもオネシモにも与えられ、そしてコロサイのクリスチャンたちにも明らかにされていったのです。

 それは今日、私たちに伝えられているものです。神様は、私たちにも、柏原また羽曳野に住んでいる私たちにも、キリストを信じる心、失敗が赦される神の豊かな恵みとたましいの平安が豊かにあるようにと、願っておられるのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)