柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「いのちに至るかおり」 コリント人への手紙 第二 2章14∼16節

 今日は花の日礼拝です。花をプレゼントするのは愛の一つの行為です。

 

1,キリストを知らせる

 凱旋の行列ということばがあります。

 ローマ軍が勝利し町中をパレードしました。人々は花を道にまき、花びらは踏まれて、その香りが町中に広がりました。

 私たちもキリストの救いに与り、行列に加えられ天国の門をくぐって凱旋します。
花が踏まれるとき、かぐわしい香りを放ちますが、私たちが苦しめられるとき、キリストの香りを放つのです。私たちを踏みつけるものによき香りを放つのです。私たちの内にあるキリストの愛がよき香なのです。


2,神に献げる香り

 パウロは「神に献げられた芳かんばしいキリストの香り」と言っています。私たちがすることは、神様が喜んで下さること、神様に献げる奉仕です。神様が「善かつ忠なるしもべよ、よくやった」と喜んで下さることほど嬉しいことはありません。


3,いのちに至らせる香り

 大事なことは「いのちに至らせる香り」であることです。神様は私たちの内側からいのちに至らせるキリストの香りが出てくるのを願っているのではないでしょうか。

 私たち永遠のいのちを与えられたクリスチャンは、苦しみに会うときが、キリストの香りを放つときであると信じ、主に従って行く者とさせていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「希望の人生を歩む」 ヨハネの福音書 8章12節

 神様はどのような方かと質問されたら、光のような方であると言えます。

 

1,見えるようになる
 
 キリストが「わたしは世の光である」と言われたのは見えない世界も見えるようになるのです。死後の世界、そして死んだ後の人間の姿が理解できるようになり、信じることができるようになるのです。どのようにして天国に行けるのかは、キリストの光によって、わかるのです。


2,喜びが与えられる

 周りが真っ暗だと、恐ろしい思いがし、不安になります。心も動揺に、塞がれ暗闇だと、生きる気力もなくなるかもしれません。

 聖書のこの箇所では姦淫の罪の女が訴えられていますが、キリストは「罪のない人が、まずこの人に石を投げつけなさい」と言われました。すると一人二人と人々は去って行きました。罪を赦すことができる人は、罪を犯していない人です。キリストだけが私たちを罪から救うことができます。


3,心にいのちの光が与えられる

 キリストを信じるなら心に光が与えられます。暗闇はなくなり、喜びでいっぱいになるのです。そうするなら不安に陥ることなく将来も明るく見通すことができるのです。

 キリストによって喜びと希望の人生を歩ませていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「聖霊が臨まれるとき」 使徒の働き 1章4∼8節

 ペンテコステの日に教会は始まりました。

 

1,神様の約束

 イエス様は弟子たちに「父の約束―聖霊バプテスマ」を待ちなさいと言われました。バプテスマは「キリストとともに葬られた」「新しいいのちに歩む」意味があります。

 バプテスマのヨハネは「私よりも力ある方が、聖霊と火で、バプテスマを授けられる」(ルカ1:16)と証ししました。

 収穫のとき籾殻は消えない火で焼き尽くされ麦は倉に収められると語ったのです。

 神様は「誰でもきよくなければ、神を見ることはできない」と言われます。

 神様によって心がきよめられ、豊かな祝福に与ることができます。

 


2,力を受ける

 弟子たちは最後まで誰が偉いか議論していました。ところが彼らはイエス様を捨てて逃げてしまったのです。しかし後、悔い改めイエス様のもとに立ち返りました。

 イエス様は弟子たちに「聖霊が降るとき、力を受ける」と約束されました。その力は不信仰を吹き飛ばし頑な心を打ち砕いて、人をへりくだらせる力があります。

 聖霊によって弟子たちは、心砕かれ一つとなり、心を合わせ熱心に、聖霊を求めました

 ペンテコステの日、彼らは聖霊に満たされ、喜びに溢れ、大胆にキリストを証ししたのです。

 私たちも弟子たちのように熱心に祈り求め、聖霊の力をいただいてキリストの証人として神に仕える者になりましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「信仰による成長」 エペソ人への手紙 4章13∼15節

子どもの成長を願う親のように、神様は私たちを祝福して成長させて下さいます。

 

1,キリストに対する一致

 教会は様々な人が集まっていますが、キリストを信じることによる一致が可能です。

 その手がかりは聖書です。キリストと自分の関係がわかります。

 キリストと私たちのとの関わりは、罪が赦されるということです。

 パウロの時代、教会に奴隷と主人が共に礼拝をする不思議な光景がありました。なぜそれが可能だったのでしょうか。十字架に依って、赦しと和解が現実のものだったからです。

 お互い自分が何ものであるかがわかり、そしてキリストに対する信仰によって、わだかまりが解かれ、奴隷と主人が一緒に十字架のキリストを崇め、礼拝し、賛美できるようになったのです。

 


2,キリストに向かって成長する

 「一人の成熟した大人となって」とあります。私たちはキリストに似た者とされ、いつまでも霊的幼児であってはなりません。
14節「もはや子どもではなく、悪巧みや、悪賢い策略に吹き回されたり、もてあそばれたりすることなく」と、この世の悪に打ち勝っていく大人へと成長させて頂けるのです。

 御聖霊は私たちのたましいをみことばによって養い、成熟させて下さり、キリストに似た者にして下さいます。たとえ、この世は汚れ、暴虐に満ちていても、私たちは御聖霊によって、キリストの忍耐と愛を証しさせていただきたいと願います。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「イエスは罪人を救う」 テモテへの手紙 第一 1章13∼16節

 この手紙を書いたパウロは、イエス・キリストの救いを伝える人でした。

 キリスト教の救いはただ、頭の中で描いたもの、空想的なものではありません。
むしろ現実的、実際的なものです。彼は15節で「キリスト・イエスは罪人を救うために…来られた。」これは真実であると言っています。

 いうなれば彼は、「実体験をした。そして自分は変わった」と証ししているのです。

 

1,パウロの実態

 彼は以前「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者だった。」と言っています。それが本当の姿でした。彼はパリサイ人律法学者、そして最高法院の有力メンバー、この世の地位や権力を持った人でした。おそらく他人から見れば素晴らしい人であったと思います。しかし、証しをしているように、暴力をふるい、そして神様に喜ばれない者、逆に悲しませるようなことをしていたのです。

 その彼が180度変わったのは何か。

 

2,神のあわれみを受ける

 彼が変えられたのは、神様の愛でした。復活のキリストは迫害するパウロに対して「サウロよサウロ、なぜわたしを迫害するのか。」と現れたのです。パウロは驚きました。

 そして自分がしていることは暴力であり迫害であることがわかったのです。そして、彼はその罪をも赦されました。それは16節にある「キリスト・イエスのこの上ない寛容」であったのです。神の愛は、ご自分をも迫害し冒瀆する者をも受け入れて下さる愛なのです。ですから神様はどんな罪でも過ちでもゆるして下さる方です。

 それは真に「あわれみ」です。神様は私たちを憐れんで下さる。慈しんで下さる愛の方です。

 フランスの哲学者・数学者であったパスカルは天才であり社交界の花形でした。しかし失恋し深い悩みに陥ったとき、聖書を読み救われたのです。その時彼は「歓喜歓喜歓喜の涙。主イエス・キリスト、哲学者の神ならず、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と涙を流して喜んだそうです。彼もまた傷んだ心に、神のいたわり、あわれみを受けて立ち直ることができたのです。

 パウロも14節で「主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。」と証ししています。信じるなら私たちの心もキリストの恵み、そして信仰と愛に満ちあふれることができるのです。

 

3,永遠のいのちを得る

 そして大切なことは16節にある「永遠のいのちを得る」ことです。たとえ素晴らしい教えを聞き、心が満たされても、死んでしまったら、滅んでしまったら何にもならないのです。

 しかしパウロは冒瀆の罪、迫害の罪、暴力の罪がゆるされ、キリスト・イエスを信じる信仰によって永遠のいのちを得られる先駆けとなったのです。

 私たちもすべての過ちはゆるされ、あわれみを受けて天国に入れることができるのです。

 ある方は「私のような者でも天国に入れますか」と言われました。
もちろんです。 パウロは「私はその罪人のかしらです」と告白し、罪が赦され天国に入れたのです。と話をし、洗礼を受けられ、感謝に心満たされ、天国に凱旋されました。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「イエスにより救われる」 使徒の働き 13章31∼39節

 復活のキリストに会い、罪赦され救われたパウロは伝道の働きに用いられました。

 ピシディアのアンティオケアという所で、ユダヤ人の会堂があり、キリストの救いを語るチャンスが与えられました。

 

1,神の約束の成就

 彼が伝えたのは、神の約束が成し遂げられたことです。その約束とは、死人がよみがえった。救い主のしるしです。それは詩篇2編7節に「あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ」それはナザレのイエスにおいて成就したのです。私たちには不思議としか言いようがありません。

 死んだ者がよみがえり、朽ちて滅びることがないものとされた。信じられないことです。しかし現にパウロは、復活のキリストに会い、人生が変えられ、31節にある「ガリラヤからエルサレムに上った人たち」すなわち弟子たちのことですが、彼らも復活のキリストに会い、さらにはペンテコステのとき聖霊が彼らに降り、彼らは力を受け大胆にキリストを語ったのです。復活のイエスの証人となっているのです。

 それは、私たちもイエス・キリストを信じて救いに与るためです。

 

2,ダビデの証し

 神様は、ダビデを通して救いの約束を与えられました。34節にある聖書のことばはイザヤ55:3のみことばです。「渇いている者は我に来たれ」と呼びかけられ、「聞け、そうすればあなたがたは生きる」と神様は約束されています。2700年以上前に語られましたが、それは今でも私たちに約束されていることです。

 ダビデは聖書の中で最も愛されている王様だと思います。彼は元々羊飼いでした。しかし神様に選ばれ、信仰によってイスラエルの王となり、国を治め神様の栄光を現した人です。そんな彼も失敗しました。姦淫の罪を犯しました。しかし罪を告白し赦され、神様の祝福に与ったのです。 ダビデへの永遠の契約、真実な契約とは何でしょうか。35節にあるみことばは、詩篇16編10節のみことばです。

 ダビデは「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず…滅びをお見せにならない」と歌いました。私を滅ぼさない、永遠のいのちを与えてくださると約束されたのです。

 そしてさらに、ダビデの子孫から救い主を生まれさせると神様は約束を与えられたのです。キリストはダビデの子孫です。その系図がマタイ1章に記されてあります。神様の約束の成就を見ることができます。

 

3,イエスによる救い

 大切なのは、神の救いであるイエス・キリストを信じることです。

 ダビデは尊敬される立派な王でありましたが、死にました。しかし、死の中からよみがえられた方がおられる。パウロは38節で、「兄弟たち、あなた方に知っていただきたい」と強く言っています。「このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられている」と言ったのです。

 モーセの律法を通しては「義と認められることができなかった」しかし「この方によって、信じる者はみな義と認められる」とパウロは語ったのです。

 その結果、異邦人たちは喜び、賛美し、信じたのです。
この福音は私たちに語られています。私たちも自分の行いではなく、キリストの十字架、罪の赦しをいただいて救われるのです。そしてダビデパウロのように、救い主イエスをほめたたえ感謝を献げ、救いを伝える者とさせていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「新しい人を着る」 コロサイ人への手紙 3章5∼11節

 四月に入り、桜の花が咲いたかと思うと、もう葉桜になっています。急に暖かくなりましたが、夏服が必要になってきます。衣替えもありますが、何より私たちの心を新たにしていただきたいと願うものです。

 今日は「新しい人を着る」と題して話をしますが、外側だけでなく私たち自身の心を神様は新しくして下さいます。

 

1,古い人を捨てる

 まず、私たちは新しくなるためにしなければならないことがあります。それは古い人を脱ぎ捨てることです。その姿を見ると、5節には「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲」とあります。すなわち私たちの内側にある欲望です。私たちの内側から出てくる欲は自分の力ではなくすことはできません。自分の力では解決できないのです。

 それではどうするのか。「殺してしまいなさい。」とあります。どのように欲望を殺すことができるでしょうか。

 以前は、私たちはそのようなものの中に生き、歩んでいたのです。欲望のおもむくままに生きていました。しかし、イエス・キリストの十字架によって私たちの罪が赦され、新しいいのちに生きるものになりました。ところが、それで罪の解決が与えられたかというとそうではないのです。私たちの問題は、自分の心が日々新しくされる必要がある、と言うことです。

 私たちは、風呂に入ったりシャワーを浴びたりして、体を清潔に保ちます。それと同じように、私たちの心も清潔にならなければなりませんし、きよく保つ必要があるのです。それでは、罪汚れから私たちをきよくするのは何でしょうか。

 一つは十字架です。「御子イエスの血すべての罪より我らをきよむる」(Ⅰヨハネ1:7)。そしてもう一つは御聖霊の働きです。

 実は、「貪欲を殺してしまいなさい。」これは聖霊の働きです。私たちの力で欲を殺すことはできないのです。しかし、パウロはこのことを体験しました。彼はローマ書8章13節で「御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」と言っています。彼はかつてパリサイ人律法学者でした。しかし、心の問題は解決できませんでした。「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っている」「もはや私でなく、私の内に住んでいる罪です」(ローマ7:19,20)「私は本当に惨めな人間です。誰が私をこの死のからだから、救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)と本音を語っています。

 それができるのが御聖霊です。御聖霊が私たちの心の中に働いて下さり、律法は罪だと指摘するだけでしたが、御聖霊は貪欲を殺して下さるのです。それだけでなく、自我も十字架に付けて下さるのです。それがきよめの消極的部分です。それに対して積極的な心のきよめがあります。

 

2,新しい人を着る

 積極的きよめは、新しい人を着ることです。新しい人とはキリストです。パウロは「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」(ローマ13:14)。と言っています。

 私たちの心はキリストのかたちに従って、新しくされ続けます。私たちは古い人を脱ぎ捨てなければなりません。風呂に入って古い下着を着るでしょうか。新しいものを着ます。古い下着を着てその上に新しい上着を着るでしょうか。そんなことをすれば気持ち悪いです。

 私たちは見えないところ内側からきれいになり、そして外側も新しくなる。

 パウロは「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」と言いましたが、私たちもキリストの愛とあわれみにみたされ、人を愛する者、人を祝福する者にされたいと願います。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)