柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「御霊によるきよめ」コリント人への手紙 第一 6章8~11節


 この世の現実は、少しでも自分の利益になることを求める傾向があります。
聖書には不正な升の例があり、仕入れには大きな升、売るときには小さな升を使うという不正が行われていました。

 

 パウロは「あなた自身が不正を行い、だまし取っています」と語り、神の目はごまかせないことを示します。少しぐらいなら、みんなやっているから―そんな誘惑がありますが、正しくない者は神の国を相続できません。

 9~10節には肉の働きが列挙され、そのようなことを続ける者は神の国を受け継げないと警告されます。

 11節は「しかし」と語り、大逆転が始まります。主イエス・キリストの御名―すなわち十字架の救いです。十字架には罪に勝つ力があります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」との約束通り、どんな過去の罪や弱さも神の愛に包まれ、癒やされ、新しくされます。


 11節には三つの祝福が示されます。

 第一に「洗い」。十字架の血潮によって過去の罪が洗い流されます。

 第二に「聖なる者とされる」。罪に汚れたこの世から分離され、神との愛の交わりが回復されます。

 第三に「義と認められる」。行いではなく信仰によって「あなたは正しい」と宣言され、無罪放免となるのです。

 

 キリストの御名は罪の赦しと復活のいのちを示し、御霊は心の内に住んで、キリストの姿へと変えてくださいます。

 私たちに新しい力が注がれ、罪から解放され、立ち上がらせます。神の御心に生きる喜びに導かれます。

 主に心を開き、感謝を献げて歩みましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「溢れ流れる水」ヨハネの福音書 7章37~39節

 猛暑の季節、私たちは喉の渇き以上に心の渇きを覚えます。聖書は、イエス様が約束された「いのちの水」御聖霊が、心の奥底の痛みや悲しみ、誰にも言えない傷を癒やす方だと語ります。渇いた心に御聖霊が臨まれるとき、力が与えられ、心は新しくされ、生きる息を吹き返します。

 

 ある青年は「結果を出して認められたい」と働き、教会でも奉仕に励みましたが、過労と人間関係の問題で燃え尽き「もう生きる価値がない」と自分を責めました。涙の祈りの中で「神様、空っぽです」と告白したとき、心の底に温かさを感じ「あなたは高価で尊い」と語られる神の愛に触れました。十字架によって赦され、冷たい砂漠のような心に御聖霊のいのちの水が湧き上がったのです。

 

 イエス様が与えるのは池のように溜まる水ではなく、溢れ流れる川です。イスラエルのワジが雨季に豊かな流れとなり植物を生かすように、御聖霊の癒やしは一度で終わるのではなく、満たされた心が周囲へ愛・喜び・平安を流し出します。自分のことで精一杯だった者が、癒やされ、他者を慰め励ます「祝福の管」へと変えられていくのです。

 

 では、どうすれば内側から溢れる御聖霊を体験できるのでしょうか。

 

 第一に、自分の渇きを認めることです。「主よ、私は渇いています。癒やしが必要です」と祈ること。

 

 第二に、イエスのもとに行って「飲む」こと─すなわち、イエス様を信頼し、みことばを心に受け入れることです。

 

 心を開き「イエス様、私を満たしてください」と求める者に、主は惜しみなく生ける水を与えてくださいます。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

 

「キリストの代理」 コリント人への手紙 第二 5章17~21節

 人間関係の気まずさや失敗による苦しみを、神は喜びに変えてくださいます。
聖書に基づき、私たちが新しく変えられるプロセスには3つの段階があります。

 

 第一に「新しく造られる」ことです。

 神を信頼しキリストを信じる時、私たちの心はリフォームされ、過去の傷やコンプレックスは癒やされます。

 自分の力ではなく、神の目から見て「高価で尊い」存在へと、すでに完成された者として新しくされるのです。


 第二に「和解は神から始まる」ことです。

 人と衝突した際、自ら謝罪し相手を許すことは困難ですが、神が心を新しくすることでそれが可能になります。

 キリストは私たちの罪や罰を十字架で身代わりに引き受け、私たちを無罪放免として神の前に正しい者としてくださいました。

 このキリストによる罪の赦しこそが、和解の土台となります。


 第三に「キリストの代理」となることです。

 私たちは神から和解の言葉を委ねられた全権大使(代理人)です。それは「ごめんね」や「ありがとう」を伝えるといった、日常の誠実な歩みから始まります。

 完璧だから選ばれたのではなく、神との和解の恵みをいただいたからこそ、孤独や苦しみの中にある人へ寄り添うことができます。

 

 新しくされた私たちが、身近な人間関係の中でキリストの愛と優しさを分かち合うとき、私たちは神の愛を体現する代理者としての役割を果たすことができるのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「神から出る愛」 ヨハネの手紙 第一 4章7~8節

 人間関係の中で「愛そう」と努めるあまり、疲れて見返りを求めてしまうのは、「自家発電」の自分の力だけで愛そうとすることが原因です。

 聖書は、愛とは努力して作り出すものではなく、「神から出るもの」である、と教えています。

 

 神の愛とは、不完全な存在のままを丸ごと受け止める無条件の愛(アガペー)です。
川の水が源流から流れるように、人を愛するための温かい気持ちの源流は自分の中ではなく、神にあります。そのため、まずは自分がその愛で満たされることが大切です。

 

 バッテリーが切れたスマートフォンが充電されるように、自分の存在そのものが全肯定され、神様に生かされている、という安心感を与えられる神に身を委ねてみてください。

心が神の愛で満たされると、「自分ばかり損をしている」という不満が消え、心に余裕が生まれます。そのゆとりから自然と溢れ出てくるものこそが、本当の他者への思いやりです。

 

 聖書が語る「互いに愛し合う」とは義務ではなく、充電が100%になれば自然と周りを照らせるようになるという温かいサインなのです。

 

 誰かに優しくなれないときは、自分を責める必要はありません。それはただ「愛のバッテリーが切れているサイン」です。

 

 自分の力だけで頑張るのをやめ、すべてをイエス・キリストに委ねてみてください。

 

 深呼吸をしてイエス・キリストにより、神の愛の源流につながるとき、心は本物の愛で満たされ、無理なく他者を愛せるようになります。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「苦しみの解決」 コリント人への手紙 第一 6章1~7節

 私たちに最もつらいのは、親しい人との争いです。家族や教会で対立が起こると、心は深く傷つきます。解決はあるのでしょうか。

 

 第一に、自分自身を知る ことです。

 クリスチャンはキリストの十字架によって赦され、神の子とされた聖徒です。
裁く権威はキリストにあり、私たちはその側に立たせていただいています。やがてこの世や御使いが裁かれる場に立ち会う者です。
それなのに、なぜ小さな問題を大ごとにしてしまうのでしょうか。
神は私たちを「高価で尊い」と呼ばれました。争う前に、自分がどれほど神に愛されているかを思い起こすことが大切です。


 第二に、解決を聞く ことです。

 自力で解決しようとすると視野が狭まり、心は混乱します。パウロは「仲裁できる賢い人はいないのか」と問いかけます。教会には同じ救いを受け、愛をもって助けられる人が必ずいます。相談し、祈ってもらうことで状況が整理され、解決の糸口が見えてきます。


第三に、キリストの愛に立つ ことです。

 自分の正しさを主張したい思いが、争いを長引かせます。キリストは不当な訴えを受けながらも十字架で命を捨て、私たちを赦されました。赦された者として生きるなら、損を受けても神に委ねることができます。


 神はあなたの悔しさを知り、正しさを主張しなくても受け入れてくださいます。争いに勝つことが解決ではありません。「すべてを益としてくださる神に委ねます」と祈るとき、心に平安と癒やしが与えられます。握りしめている自分の正しさを手放すとき、神は豊かな慰めと回復を与えてくださいます。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「イエスの御力」 ルカの福音書 5章17~20節

 中風の人は、イエス様が神の力によって病を癒やしておられると聞き、友人たちと共に救いを求めて来ました。しかし家は人であふれ入れません。そこで友人たちは屋根をはがし、病人をつり下ろしたのです。叱責や弁償の覚悟もあったはずですが、彼らは友を深く憐れみ、愛し、「イエス様なら必ず癒やされる」という信仰がありました。

 

 愛は必ず行動となり、イエス様はその信仰を見られます。私たちも周囲の弱さを抱える人のために祈り、共に主の前へ出る使命があるのです。

 

 イエス様は彼らの信仰を見て「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。

 

 人々は病の癒やしを期待していましたが、イエス様がまず扱われたのは「罪」でした。

 

 罪とは神との関係がずれ、喜びや感謝を失い、不満や怒りが心を満たす状態です。
中風の人も体だけでなく心が病んでいました。だからこそイエス様は神との関係の回復を宣言されたのです。

 

 人々は「神以外に罪を赦せる者はいない」と驚きました。イエス様はその真実を示すため「寝床を担いで帰りなさい」と命じ、中風の人は病が癒やされ、立ち上がり神をあがめて帰って行ったのです。

 

 イエス・キリストは今も生きておられ、私たちの弱さや苦しみを知り、十字架で不満や罪を担い、「彼らを赦してください」と祈られた方です。

 

 私たちの魂を罪から解放し、癒やす方に、自分の弱さと罪を差し出して、「あなたの罪は赦された」という宣言を受け、新しい歩みを始めようではありませんか。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「背負って下さる神」イザヤ書 63章8~9節

 聖書が示す救い主キリストは、私たちの人生の重荷を一緒に担い、ともに歩んでくださる方です。

 

1,一緒に苦しまれる

 キリストは悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と一緒に喜ばれる方です。姦淫の罪を犯した女性を周囲の非難から守り、決して責めなかったように、愛するとは相手と一緒に悩み、苦しみ、泣くことなのです。


2,罪を贖う

 贖いとは代価を支払って自分のものとすることを意味し、本物の愛には犠牲が伴います。私たちは何か良い行いをしたから愛されるのではありません。
ある裁判官が親友の負債をすべて肩代わりした話のように、キリストは愛される資格のない私たちのために、罪の報酬である死の代価を十字架の上で代わりに支払ってくださったのです。


3,背負って下さる

 人は成長するにつれて生活や経済、家庭などの重荷が増え、悩み苦しみます。しかし、母親が愛ゆえに幼子を重荷と思わずに抱きしめるように、神は弱く愚かな私たちを愛し、喜んでその負担を背負ってくださるのです。

 救いとは自分が強く立派になることではなく、すべてを神にお任せすることなのです。

 もし今、心に重荷があるなら、「神様、もう疲れました。私を助け、背負ってください」と祈り、すべてを委ねてみてはどうでしょう。その率直な一言から、新しい歩みが始まります。あなたを心から愛し、片時も離れずに背負ってくださる方が、いつでも両手を広げて待っておられるのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)