柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「涙を拭い取られる神」 イザヤ書 25章8~9節

 愛する者との死別は言葉にできない痛みや寂しさをもたらします。

 

1.神の慰め

 しかし聖書には、全能の神が「永久に死を呑み込まれ」「すべての顔から涙を拭い取る」と約束されています。

 神は私たちの涙を無視せず、一人ひとりの悲しみに寄り添ってくださるお方です。


2. 再会の希望

 クリスチャンにとって死は「永遠の別れ」ではなく「一時的な 別れ」です。
地上の歩みを終えた後、天国で愛する者と再会できるという確かな希望が与えられています。

 故人が残した愛や思い出を心に抱き、天国での再会を待ち望みながら、日々を進むことができます。


3. 神の平安


 悲しい時に強がる必要はありません。
イエス様ご自身も、友の死に涙を流されました。

 涙を拭ってくださる主が傷ついた心を優しく包み、言葉を超えた平安と慰めを与えてくださいます。

 再会の希望を胸に、主の深い愛が皆様の上にありますように。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

 

「聖なる者とされる」コリント人への手紙 第一 6章1~11節

 聖書は「仲間同士で解決できず、裁判に至ること」は悲しむべきことであり、互いに訴え合うこと自体が敗北だと指摘します。

 

 第一に、愛とは損を受け入れることです。

 キリストは「ののしられても、ののしり返さず、正しく裁かれる方にお任せになった」(一ペテロ2:23)と証しされています。

 敵を赦す力は十字架にあります。
自分の利益を守るため裁判に勝っても、心に平安があるとは限りません。争いの背景には 「損をしたくない」というエゴがあります。しかし神の国を継ぐ者は、時に損を引き受ける愛の姿を選ぶのです。

 

 第二に、救われる以前の姿を思い起こすことです。

 性的不道徳、偶像礼拝、盗み、貪欲など「正しくない者」は神の国を相続できないと警告されます。

 私たちの心の中で人を裁き、自分の権利を主張することも、同じ罪の性質から出ています。聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:23)と言います。


 第三に、キリストによって聖なる者とされることです。

 キリストは私たちの心を洗い、過去の傷や罪を赦し癒やし、きよめてくださいます。

 聖なる者とは神のものとされることであり、神が守り支えてくださる特権です。

 十字架によって義と認められ、罪から解放され、喜びに満たされる新しい生き方が与えられるのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「信仰に堅く立つ」コリント人への手紙 第一 16章13~14節

 私たちは不安や孤独に襲われる時があります。パウロは、信仰者が心を強く保つための三つの大切なことを語っています。

 

1,「目を覚まし、信仰に堅く立つ」

 目を覚ますとは、この世の価値観や時代の流れに流されず、神様の約束と恵みを忘れないことです。私たちの感情や状況は常に変化します。しかし神様の愛と、キリストの十字架による罪の赦し、復活による希望は決して変わりません。私たちは揺るがない岩であるキリストにしっかり立つことができます。


2,「神の力によって強くなる」

 パウロが「雄々しく、強くありなさい」と勧めました。自分の弱さを知るとき、神様の強さが見えます。パウロも病を抱えていましたが、神様はパウロに「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られました。苦しみの中でも、神の愛に満たされ感謝を失いませんでした。私たちもキリストに頼るとき、復活の希望と力が与えられます。


3,「すべてを、愛をもって行う」

 どれほど力があっても、愛がなければ人を傷つけてしまいます。まず私たち自身が、十字架の上で人を赦し、とりなし、祈られたキリストの愛に満たされることが大切です。

 その愛に満たされるとき、人を愛し、仕え、その人の成長を助けることができます。

 主イエスが私たちを愛し、命を捨ててくださった、その愛を心に刻み、日々の仕事や家庭、言葉や行いにおいて、神様に喜ばれる歩みをしていきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「信仰による救い」 創世記 15章5~6節

 聖書ではいろいろな場面で「救い」という言葉を使いますが、もっとも大切な「救い」は罪の滅びからの救いです。しかもそれは、「信仰による救い」であることを約束しています。

 主なる神はアブラムの信仰を見て、彼を義と認められました(6節)。信仰が大切です。

 

①神の約束を素直に受け入れる。

 アブラムには跡継ぎとなる子どもがいませんでした。けれども、神はアブラムの子孫を星のように多くすると約束されました。

 彼は神の約束を素直に受け入れました。私たちも神の約束を信じましょう。

 

② 神ご自身に信頼する。

 アブラムが神の約束を聞いた時、何の保証もありませんでした。けれども、彼は「神にはできる」と信頼しました。

 無条件の神への信頼です。私たちも神が自分を救ってくださると信じましょう。

 

③イエス様の十字架の救いを信じる。

 神は私たちの罪を赦して、救うために、御子イエス様を十字架にかけられました。

 アブラムのように、イエス様の十字架の救いを信じる人は、信仰によって罪が赦されて救われます。(ヨハネ3:16)。

 

 

(宣教者:山本敬夫牧師 北大阪教会)

「渇きをいやされる主」ヨハネの福音書 4章13~15節

 真昼の熱い盛りに水を汲みに来たサマリアの女性は、不道徳と見なされ社会や人間関係から疎外されていました。彼女は愛情や世の楽しみに心の満たしを求め続けましたが、それらは一時的であり、心の奥底にある「たましいの渇き」が満たされることはありませんでした。

 

1,渇きに対する約束

 そんな彼女に対し、イエス様は「わたしが与える水を飲む者はいつまでも渇くことが
ない」と語りかけます。それは善行や報いという世の常識を超えた、キリストの愛という「生ける水」聖霊を受けることへの衝撃的な約束でした。イエス様との対話を通じて、彼女の心は次第に開かれ、自らの渇きを認めて「その水をください」と素直に求めるようになります。

 

2,心の渇きを告白する

 イエス様が彼女の不道徳な過去に触れたのは、責めるためではなく、隠れて暮らす闇
の生活から光の中へと導くためでした。彼女が正直に答えると、その心には命の水であるイエス様の愛が注ぎ込まれ、たましいの解放と癒やしが与えられました。

 

3,渇きをいやされたことの証し

 満たされた彼女は大切な水瓶を置き、町の人々にキリストとの出会いを伝えて、喜び
を分かち合いました。

 

 私たちも自分の姿をイエス様に正直に差し出し、命の水(慰め主 ― 御聖霊)を受けて、心を癒やされ、その喜びを周囲と分かち合うことができます。この恵みを受けて、主の愛を伝える者とさせていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「御霊によるきよめ」コリント人への手紙 第一 6章8~11節


 この世の現実は、少しでも自分の利益になることを求める傾向があります。
聖書には不正な升の例があり、仕入れには大きな升、売るときには小さな升を使うという不正が行われていました。

 

 パウロは「あなた自身が不正を行い、だまし取っています」と語り、神の目はごまかせないことを示します。少しぐらいなら、みんなやっているから―そんな誘惑がありますが、正しくない者は神の国を相続できません。

 9~10節には肉の働きが列挙され、そのようなことを続ける者は神の国を受け継げないと警告されます。

 11節は「しかし」と語り、大逆転が始まります。主イエス・キリストの御名―すなわち十字架の救いです。十字架には罪に勝つ力があります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」との約束通り、どんな過去の罪や弱さも神の愛に包まれ、癒やされ、新しくされます。


 11節には三つの祝福が示されます。

 第一に「洗い」。十字架の血潮によって過去の罪が洗い流されます。

 第二に「聖なる者とされる」。罪に汚れたこの世から分離され、神との愛の交わりが回復されます。

 第三に「義と認められる」。行いではなく信仰によって「あなたは正しい」と宣言され、無罪放免となるのです。

 

 キリストの御名は罪の赦しと復活のいのちを示し、御霊は心の内に住んで、キリストの姿へと変えてくださいます。

 私たちに新しい力が注がれ、罪から解放され、立ち上がらせます。神の御心に生きる喜びに導かれます。

 主に心を開き、感謝を献げて歩みましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「溢れ流れる水」ヨハネの福音書 7章37~39節

 猛暑の季節、私たちは喉の渇き以上に心の渇きを覚えます。聖書は、イエス様が約束された「いのちの水」御聖霊が、心の奥底の痛みや悲しみ、誰にも言えない傷を癒やす方だと語ります。渇いた心に御聖霊が臨まれるとき、力が与えられ、心は新しくされ、生きる息を吹き返します。

 

 ある青年は「結果を出して認められたい」と働き、教会でも奉仕に励みましたが、過労と人間関係の問題で燃え尽き「もう生きる価値がない」と自分を責めました。涙の祈りの中で「神様、空っぽです」と告白したとき、心の底に温かさを感じ「あなたは高価で尊い」と語られる神の愛に触れました。十字架によって赦され、冷たい砂漠のような心に御聖霊のいのちの水が湧き上がったのです。

 

 イエス様が与えるのは池のように溜まる水ではなく、溢れ流れる川です。イスラエルのワジが雨季に豊かな流れとなり植物を生かすように、御聖霊の癒やしは一度で終わるのではなく、満たされた心が周囲へ愛・喜び・平安を流し出します。自分のことで精一杯だった者が、癒やされ、他者を慰め励ます「祝福の管」へと変えられていくのです。

 

 では、どうすれば内側から溢れる御聖霊を体験できるのでしょうか。

 

 第一に、自分の渇きを認めることです。「主よ、私は渇いています。癒やしが必要です」と祈ること。

 

 第二に、イエスのもとに行って「飲む」こと─すなわち、イエス様を信頼し、みことばを心に受け入れることです。

 

 心を開き「イエス様、私を満たしてください」と求める者に、主は惜しみなく生ける水を与えてくださいます。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)