柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの守り」 ピリピ人への手紙 4章4∼7節


 先週はイエスキリストがよみがえられた、復活をお祝いするイースターでした。
「キリストはここにはおられません。よみがえられたのです」と御使いは伝えましたが、キリストは今、天にあって私たちを助けて下さいます。

 それではどのようにして私たちを助けて下さるのでしょうか。


1,喜びが与えられる

 私たちは毎日をどのように過ごしているでしょうか。楽しく過ごすのと、つらく悲しく過ごすのとどちらがよいでしょうか。パウロは、牢獄にあってこの手紙を書きました。この手紙で繰り返し出てくることばは「喜び」です。

 もし、彼自身の心に喜びがなければこのことばは出てこなかったと思います。彼自身が喜んでいた。たとえ牢獄の中にあろうが、自分が裁判で裁かれることがあろうが、彼の心には湧き出てくる喜びがあったのです。それは、外側からくるものではなく神様から与えられた心の中にある喜びです。

 それは、死の中からよみがえられたイエス様が彼の心の中に働かれ、与えられるのです。7節には「キリスト・イエスにあって」とありますが彼の心の中にはイエス様がおられたのです。ですから、私たちも信仰を働かせるなら同じ喜びを与えていただくことができます。「いつも主にあって」、それはいつでもどこでもどんなときにもキリストが守ってくださるのです。

 その結果として心が寛容になるのです。人を許せることができるようになるのです。「寛容な心が、すべての人に知られるようになる」とはその人の中から喜びがあふれ出てくる。ですから、少しの過ちや失敗も許すことができる。寛容な心となれるのです。

 主は近いとは二つの意味があります。一つは、側そばにおられると言うことです。
キリストが側そばにおられる。ダビデは、「私は常に私の前に主を置いた」と言いました。イエス様の前に生きる。生活する。そのことを実践して、いのちを狙うサウロを許すことができたのです。たとえ自分のいのちがとられようとしても彼を殺すことはなかったのです。それ故に彼は人からも信頼され、神様に豊かに祝福されたのです。

 

2,思い煩いを知っていただく

 6節には「何も思い煩わないで」とあります。私たちは心配します。思い煩いの原因はどこにあるのか。神様から離れてしまうことです。神様を見失ってしまうことです。進むべき道が分からなくなってしまう。どうしたらよいか分からなくなる状態です。
どうすればよいのか。「祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とパウロは語っています。自分の思い煩っていることを神に知っていただく。祈ることです。自分の心を明け渡し、神様に語ることです。お委ねすることです。お任せするのです。

 そうすればどうなるのか。「神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストにあって守って」くださるのです。

 私たちが思い悩み、不安に押しつぶされそうになるとき、神様に祈り、知っていただき、そしてキリストが私を守ってくださる。そう信じ、感謝して、喜びに満たしていただきたいと思います。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「ガリラヤで会おう」 マタイの福音書 28章1∼10節

 皆さんイースターおめでとうございます。キリストの御復活をともにお祝いでき感謝です。

 キリストが復活されなかったらキリスト教は存在しなかったと思います。逆に、キリストが復活されたからこそ私たちは信じることができ力が与えられます。キリストの復活が私たちの信仰にとっていかに重要であり、信仰の根幹であるかを見ていきたいと思います。

 

1,復活―神の約束の証し

 イエス・キリストは、以前からご自分が十字架にかけられ死んで三日目によみがえられることを弟子たちに話されました。また、聖書にもキリストに関するメシア預言は300以上あると言われています。

 しかし、約束されても現実に起こらなければ何の意味もありません。ところが復活は起きたのです。

 マグダラのマリアや他の女性たちが墓に行くと、驚くことが起こりました。地震が起こり御使いが現れたのです。ローマ兵たちは恐れましたが、女性たちは御使いが「イエスは死人の中からよみがえり、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」と念を押すように語ったのです。

 しかも何と、イエス様ご自身が現れ、女性たちは足を抱き、イエス様を礼拝したのです。このマタイの福音書が書かれた時代、そのイエス様に会った、復活のイエス・キリストを見たという人は大勢いました。そのうちの一人パウロは、コリント書の中で一度に500人以上に現れたと証ししています。もちろんパウロも復活のキリストに会って人生がまったく変えられたのです。
8節には「恐ろしくはあったが大いに喜んで」と女性たちの気持ちが表れています。また弟子たちに夕方現れたときは「弟子たちは主の見て喜んだ」と、復活のキリストに会う人はみな喜びに満たされるのです。

 

2,復活―罪の赦しの確証

 なぜ喜ぶことができるのか。その一つは、罪の赦しです。
罪過ちが赦される。キリストの復活によって、この事が確かなものとされるのです。

 弟子たちは恐れていました。不安がありました。ところが復活の主にあって、イエス様の方から、弟子たちや女の人たちに呼びかけられています。

 9節の「おはよう」ということばには「喜べ」という意味があります。弟子たちに会われたときもシャローム平安があるようにと言われ、弟子たちは喜んだのです。復活のイエス様は罪を問わない、裁かれない。私たちを愛し、私たちを赦して下さる方です。

 その主がともにいて下さる、これほど心強いものはありません。
頼りになる方はイエス・キリストのみです。キリストの十字架は、罪の大元である悪魔を十字架で滅ぼし、復活されて私たちを罪の縄目から解放し自由にしてくださるのです。

 ですから、私たちは罪を赦して下さる、主をあがめ喜ぶことができるのです。


3,復活―再会の希望

 御使いは女性たちにイエス様は先にガリラヤに行かれ、弟子たちにそこで会えることを伝えるように言いました。そして復活のイエス様も、「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます」と言われたのです。
それはイエス様の弟子たちに対する信頼です。

 「わたしの兄弟たち」 と言われました。ご自分と一緒にあつかって下さるのです。

 そこにイエス様の愛が溢れています。事実、弟子たちの失敗を一言も言われませんでした。むしろ将来を彼らに託されました。何よりも大事なことは「会える」ことであり、キリストの約束は20節にあるように「いつもあなたがたとともにあります」それが私たちにも約束されているのです。

 十字架で死なれた方は、死に打ち勝ちよみがえられ、私たちの心に生きておられる。
ペテロは「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています」(Ⅰペテロ1:8)と手紙に書きました。

 私たちは心にイエス・キリストを信じ、希望を持って活かしていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

 

「復活の希望」 ヨハネの福音書 11章25∼26節

 今日は、召天者合同記念礼拝ということでご遺族の皆様も礼拝に出席して下さり、また先に天に召された方々の写真をともにして礼拝できることをうれしく思います。

 やがてのときには、天国で再会し喜びをともにできることを信じます。

 

1,死の現実

 私たちは故人の写真を見て懐かしく思い「あんなこともあった。こんなこともあった。」と思い出します。しかし残念なことには、話ができないことです。

 死の現実は、親しい者でも離れてしまうことです。写真に向かって話しかけても答えてくれませんし、会話はできません。

 しかしその死を乗り越えていくものがあります。それが復活です。

 いのちが復活する。なかなか信じがたいことです。

 私も信じられませんでした。むしろ、復活とかキリスト誕生のときの処女降誕―聖霊によって生まれる。そんなことがなければ、キリスト教はよい宗教だ。簡単に信じられると思っていました。しかし今は全く逆です。もしこの復活―死からのよみがえりがなければ、信じるに値しない。空しいものであると思います。それは、キリスト教に「復活」があるからこそずっと信仰が続いている。そしてこれからも、復活の信仰によって続けられるだろうと思います。


2,キリストを信じる者は死んでも生きる

 キリスト教で一番よく知られているのはクリスマスです。全世界でお祝いされています。しかし大切なのはキリストの復活です。日本でも少しずつ知られてくるようになっています。イースター復活祭、これがもっと宣伝されればと思います。

 ヨハネ福音書11章にはラザロの復活が記されています。親しくしていたラザロが死んだ。その時姉のマルタに語られたのが、この聖書のことばです。

 マルタは兄弟が死んだときどうすることもできませんでした。私たちも家族が死んだら気が動転するかと思います。私も現実にそんなことがありました。

 しかし、キリストは「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じるものは、たとえ死んでも生きる」と約束されます。そこに、大きな励ましがあります。
死に直面する者には大きな力です。

 そして何と、この11章には死んだラザロが生き返ることが記されています。大きな驚きでした。そしてそのことを通して多くの人が信じたとあります。復活には大きな力、励ましがあるのです。


3,信じる者は永遠に死ぬことがない

 そして、大事なのは今、信じることです。キリストはマルタに「あなたはこのことを信じますか」と尋ねられました。マルタは「はい、主よ」と答えているのです。

 復活は、理屈を持って説明できません。それはあなたが何のために生まれ、何のために死ぬのか説明するのと同じくらい難しいことです。

 しかし、復活には希望があるのです。信じるなら。永遠に死ぬことはない。

 これほど大きな希望は他にはありません。唯信じるだけで与えられるのです。

 柳田邦男『ガン50人の勇気』に「涙して洗った茶碗」のエピソードがあります。
末期ガンの友人に洗礼を授けてくれと頼まれ、病室にあった茶碗を涙ながらに洗い、洗礼を授ける。「主の祈り」を教えてくれと頼まれ、晴れやかな表情を見せ間もなく息を引き取ったという話です。

 詩篇の23篇に「主は私のたましいを生き返らせ、 たとえ、死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」おそらく、その信仰が、その確信がこころに与えられ、死を恐れない。安らぎがある。なぜなら、死の中からよみがえられたキリストが共におられる。その信仰があったと思います。

 私たちも「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われるイエス・キリストを信じ、希望を与えていただく者となりましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「上にあるものを求める」 コロサイ人への手紙 3章1∼4節

 ある人がキリスト教について色々質問され、「信じたら何か御利益がありますか?」と言われました。私は「色々ありますが、信じたら永遠のいのちが与えられますよと答えました。」

 いのちほど大切なものはありません。「たとえ全世界を儲けても、自分のいのちを損してしまったら何の得になろうか」とイエス様は言われました。神様は私たちに新しいいのち、復活のいのち、永遠のいのちを与えて下さいます。

 


1,上にあるものを求める


 ですから、クリスチャンとなった者、永遠のいのちが与えられて生きる者はどうすべきか。第一の事は、1 節にあるとおり「上にあるものを求める」ことです。
上にあるとはどこか。天国のことです。天にあるものを求めることです。

 そこは、キリストが神の右の座についておられるところです。イエス・キリストは、十字架にかけられ死なれ、黄泉よみに下り三日目によみがえられました。40日間弟子たちとともにおられ、復活されたこと死に勝利されたことを証しされました。そして天に帰られたのです。

 今、キリストは天におられます。神の右の座にあって、私たちのために執りなして下さっておられます。私たちを励まし、支えて下さっておられるのです。

 ですから、私たちの今すべきことは、上にあるもの、キリストを見上げて、キリストから力を与えていただいて生きることです。

 それを実践したのが、ステパノです。彼は身寄りのない寡婦を世話する人でした。しかし彼の真骨頂は、キリストを証しすることでした。

 迫害され石で打たれましたが、彼は「この罪を彼らに負わせないで下さい」と赦したのです。なぜなら彼は神の栄光と神の右に立っておられるキリストが見えたからです。その信仰のリアリティ真実によって赦すことができたのです。

 自分に敵対する人を赦すことができるでしょうか。受け入れることができるでしょうか。不可能です。しかし、キリストを見るときそれが可能となるのです。私たちはいつも、上にあるものを求めるべきです。神様は必ず栄光を現して下さいます。

 

2,上にあるものを考える

 私たちは色々なことを考えます。色々なことで思いわずらったり、悩んでしまいます。考えすぎて夜も眠れない、という人もあります。どうすれば良いのか。パウロは「地にあるものを思ってはなりません」と言いました。この世のものに心が捕らわれないことです。

 アダムとエバは木の実が美味しそうに見えて、欲にかられ、サタンにだまされて神様の祝福を失いました。

 どうしたらよいのか。上にあるものを思うと言うことです。
いつも、神様の愛、めぐみ、あわれみを心に思い浮かべることです。

 この世のものに捕らわれない。この世とは一線を画する。悪魔はイエス様に世の栄華を見せました。しかし「下がれ!サタン。あなたの神、主を礼拝せよ」と勝利されたのです。

 サタンは逃げていきました。3節に「あなたがたはすでに死んでいて」「いのちは神のうちに隠されている」とあります。この世のものに捕らわれない。頓着しない。神のうちに守られている。私のいのちは神様の内にある、そう思う、信じることです。

 お金を銀行に預ける通帳がある。大きなお金は手元になくても、ATMで引き出すことができる。天に宝がある。そこからいつも恵みを引き出すことができる。それが神様の祝福です。


3,神の栄光が現実のものとなる


 私たちはこの世で、信仰を持って生きていますが、やがて上のものすなわち天国が現実となります。それは死んだときに現れます。私たちは死んで後、神の御前、神の座に行かなければなりません。使徒信条にあるとおり、死んだ者と生きた者を神様は裁かれるのです。

 そのとき自分が信じていたものが明らかになるのです。イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じるものには、永遠のいのちが与えられ、そして天国が現実のものとなります。私たちは、キリストと共に栄光のうちに現れるのです。

 ですから、私たちは常に上にあるものを思い、上にあるものを求める、何がイエス様の喜ばれることなのかを思い起こして、神様の喜ばれることを行うものでありたいと願います。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「神の義を行う」 マタイの福音書 5章17∼20節

 イエス様が宣教に立ち上がられたとき行われたのは何か。もちろん天国に行けるための救いを語られましたが、もう一つのことは「癒やし」です。

 悪霊に取り憑かれた人、てんかんの人、中風の人など病人を癒やされたのです。
救いと共に、癒やしの御業が現されました。それによって多くの人が集まり、人々は神をあがめました。そして有名な「心の貧しい人は幸いです。」から始まる山上の垂訓を語られました。

 しかしその時、あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、天国に入れないと言われました。律法学者やパリサイ人は非常に真面目です。それにまさるとはどのようなことなのか。そうでなければ天国に入れない。とイエス様が言われた真実がどこにあるのか考えなければなりません。


1,律法と預言者

 イエス様は「律法や預言者を廃棄するために来たのではない」と言われました。
律法と預言者それは何を意味するかと言えば旧約聖書です。

 当時のユダヤ人社会では、律法が重要な役割をしていました。生活するために律法が必要であり、それが基盤となって人々は生活していたのです。

 しかし、イエス様は安息日に病人を癒やしたり、弟子たちが安息日に麦の穂をつまんで食べるのも赦されました。人々はイエス様が律法破りだと思ったのです。そのような行動をみるなら、確かに律法を破っているように見えます。

 安息日に働いてはならない。それが当時の一般的解釈でした。ところがイエス様は「廃棄するためにではなく、成就するために来た」と言われました。

 律法を成就する。どのように成就するのか。

 それは、ある律法学者に答えられたことばにあります。マタイ22 章37 節で一番大切なのは「心をつくし、いのちを尽くし、 あなたの神、主を愛しなさい」第二は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われたのです。ですから、律法の精神、そして聖書を通して神様が私たちに語っておられることは、愛しなさい。この一語につきるのです。

 愛するのか愛さないのか。そのことです。それは私たちにも今、問われています。神様を愛しているのか、隣人を愛しているのか。

 金の亡者ザアカイは自分の財産を捨てて、神を愛し、人を愛する人に変えられました。

 ウクライナで戦争が始まって2 年になります。

 クリミア半島は占領されています。かつてそこでも戦争がありました。ナイチンゲールは、従軍看護婦として働きました。敵味方区別なく助けたのです。しかし、イギリス世論はなぜ敵を助けるのか非難したのです。しかし彼女は続けやがて国際赤十字にその精神は受け継がれて行ったのです。それは神を愛し、人を愛する所から来ているのです。


2,パリサイ律法学者にまさる義

 イエス様は「あなたがたの義がパリサイ律法学者の義にまさらなければ天国に入れない」と言われました。彼らは真面目です。品行方正です。それにまさる義を行うことができるのだろうか。 義とは正義の義です。正しいことを行う。それが一般的な解釈であると思います。

 しかしある宣教師の先生が、「義」とは我の上に羊が被さっている。それが義だ。と説明しました。その羊こそ、キリストであり、私たちを覆ってくださる。守ってくださる。

 「義人はいない。一人もいない」しかし私たちを守り、罪の身代わりとなってくださるイエス様を信じるなら、私たちは神に義と認められるのです。そしてすべての罪は十字架で赦され、一点の罪の曇りもない、神によって義と認められるものとなるのです。
その神様を信じるなら、その人は義と認められ、天国に入ることができるのです。

 律法学者やパリサイ人は自分の力で正しく生きようとしました。しかし、それは偽善でした。後で、救われたパウロはよく分かりました。私たちも自分の偽善が分かると思います。

 自分は罪深い人間だと分かります。キリストの十字架なしには自分の罪は赦されない。そう信じて、すべてをキリストにお任せする。そして、キリストに従って生きる。その生き方が、律法主義者にまさる生き方なのです。
すべてを主に委ね、キリストに従って義の道を歩ませていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「感謝の心を持つ」 コロサイ人への手紙 3章15節

 私たちは神様ということばを聞くとき何を思い浮かべるでしょうか。ある人は「神頼み」と言いました。なるほど、神様助けて下さい。こうなるようにして下さい。そういうことが多いのではないでしょうか。

 それでは、神様は私たちに何を願っておられるでしょうか。それは「感謝の心を持つ人になりなさい」ということです。この神様のことばの中にも、神様の愛と恵み、神様の知恵を見いだすことができます。

 


1,自分の弱さに打ち勝つ

 もし、相手が批判したり、皮肉や嫌みを言ったらどうでしょうか。「心の中で、この野郎」と叫ぶのではないでしょうか。もし言ってしまうと、怒りや憎しみ、復讐心が次々とわいて出てくるかもしれません。しかし、相手のことばに対して「ありがとう」と言うなら、穏やかな平和な心、あるいは反省、そして相手の忠告を受け入れてもっと良くなろうと思うのではないでしょうか。「ありがとう」ということばには、私たちの心を怒りから、平和に変える力があるのです。

 


2,人間関係の潤滑油

 「ありがとうは」人間関係の潤滑油です。あるとき、ドアがキイキイ音が鳴り開け閉めがうまく行かなくなりました。ところが、呉55 6 を注したら音がしなくなりました。そして開閉が楽になったのです。潤滑油は必要です。私たちの人間関係も、「ありがとうの」一言でうまく行く、問題が解決することがあるのです。

 


3,感謝の心を持つ

 この世には色んな悩みや不安苦しみがあります。物価高、者の値上がり、コロナ感染、どうしてこうなるか、この世には感謝できない多くのことがあります。

 しかし問題は、外側のことではなく自分の心です。感謝することがあるから、感謝する。感謝することがないから感謝しない。ではなく、どんなことがあってもどのような状況になっても感謝できる心を持つことです。人は黴菌(ばいきん)によって病気になりますが、取り除くことも大切です。
黴菌(ばいきん)に打ち勝つ頑強な体を作ることが大切だと思います。

 私たちの心も、誘惑や悪に打ち勝つ強い心になるためにはどうしたらよいでしょうか。いつも不幸の種を拾い集めるより、どんなことにもどんなときにも感謝できる心を持つことではないでしょうか。

 それは「キリストの平和があなたの心を支配するようにしなさい」と言うことです。
キリストの平和が私の心を支配する、キリストが心を治めて下さる。キリストが守ってくださる。 キリストには力があります。

 私たちの罪を赦す、十字架の力があります。キリストには復活の力があります。
死からよみがえり、私たちのいのちをも滅びから救い、悪しき者から守られる力があるのです。

 私たちは信じることができます。信仰によって心が、感謝に変えられるのです。

 自分の失敗が十字架で赦された、死ぬべき者に永遠のいのちが与えられた。これほど感謝なことはありません。私たちは、罪を数えて暗くなるより、赦された恵みを覚えて感謝する者とさせていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「多くの実を結ぶために」 ヨハネの福音書 15章4∼5節

 本日は、和歌山の五つの教会の皆さんと共に礼拝できることを大変うれしく思います。これもまた神様の恵みと信じ感謝します。

 私たちクリスチャンが今生かされているのは、信仰によって多くの実が結ばれることではないかと思います。どのようにすれば多くの実を結ぶことができるでしょうか。



1,キリストにとどまる―繋がっている


 イエス様はご自分と私たちの関係をぶどうの木のたとえを持って語られました。
エス様がぶどうの木であり、私たちはその枝です。枝は自分の力で実を結ぶことはできません。まず大事なことは、キリストにとどまる、キリストに繋がっていると言うことです。キリストに繋がるとは信じることです。信仰によって私たちはキリストと繋がります。

 この世では人間関係が大切です。人とのつながりは大切です。おそらく教会に来るのも誰かに誘われたという人が多いと思います。しかしそれ以上に大切なことがキリストに繋がっているかどうかです。信仰も人間的なつながりであるなら、簡単に壊れてしまう可能性があります。しかしキリストに繋がるならたやすくは切れません。使徒パウロは「だれが、キリストの愛から私たちを離れさせるのか。どんな被造物も、…神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ8:35,39) と言っています。

 キリストに繋がるとは十字架の愛がわかると言うことです。自分のためにキリストはいのちを捨ててくださった。このことがわかるとキリストからは離れられなくなります。

 そして大切なことは良い実を実らせることです。昨年私の関係している教会でぶどう狩りがありました。残念ながら参加できませんでしたが、お土産をいただきました。シャインマスカットでした。非常に美味しかったです。ぶどう狩りの写真も見ました。実が豊かに実っている。ぶどうの素晴らしさは枝ではありません。美味しい実ができるかどうかです。枝振りが良いとかそれは評価されないのです。

 どんな実が結ばれるのかそれが大切なところです。

 ですから、私たちも立派だとか優れているとか人間的な評価よりも、神様の目から見てどうかが問われることであると思います。神様が求めておられる実は、ガラテヤ5:22,23 「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制」と言った心の内側に結ばれる実です。心の豊かさです。それを神様は求めておられます。

 そのためにも、イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」(4節)と言われるのです。

 そして5節で「わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」と約束されています。自分はしっかりとイエス様に繋がっているか。キリストが内にとどまり、キリストが実を結んでくださる。その信仰をしっかりと持ちたい。

 


2,実を結ぶための取り除き―剪定がある。


 2節に「実を結ばないものは、すべて父がそれを取り除き」とあります。枝の剪定があるのです。良い実を結ばないものを惜しげもなく切っていく。

 剪定を見たことがありますが、どんどん不要なものを切り取ります。するとしっかりした良い実ができて高値がつくのです。

 私たちの心の中に剪定されなければならないものがあります。
「不品行、汚れ、敵意、争い、分裂、妬み」 (ガラテヤ5:19~21) など肉の行いです。
パウロは自分の肉を十字架につけた (ガラテヤ5:24) と言っています。

 そして、私たちの心の中に御霊の実である愛、喜び、平和、寛容等の実が豊かに結ばれるのです。これは聖霊の働きです。神様が与えてくださいます。

 


3,神が選んでくださった

 これはすべて、神様の責任です。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」(15:16)イエス様の伝道はガリラヤ湖から始まりました。無学の弟子たちが聖霊の力を受けて、地の果てまで証人となったのです。

 私が開拓伝道に使わされたとき、種は蒔かれていました。宣教師の働きがあったのです。ボートミッションのコルベンソン師ホビー師が伝道したのです。その後、私は「あなた方がわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになる」そのことを信じて祈りました。さらに救われる者が起こされ、そして教会が生み出されていきました。

 今私たちができることは何か。それは必ず、父が与えてくださる、そう信じて祈ることではないでしょうか。

 キリストに繋がり、豊かに実が結ばれる。私の内に、教会の中に、神の豊かな実りがあるように祈り求めましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)