柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「この世との決別」 コロサイ人への手紙 2章20∼23節

 今日は「この世との決別」と題してお話いたします。

 私たちはこの世に生きています。しかしクリスチャン、イエス・キリストを信じて生きている者は、もはやこの世のものではありません。一言で言うなら神のもの、神に属する者です。

 イエス・キリストは「世と世の欲は過ぎ去る」と言われました。

 この世は永遠には続きません。やがてこの世のものが滅びるときはきます。

 その時、神に属する者―クリスチャンは天国に入ることができます。
言うなればそれが最大の信仰の利得であると言えます。

 「たとえ全世界を手に入れたとしても、自分のいのちを失ってしまったら何の得になろうか。」とイエス・キリストは言われました。いのちを失ってしまったら一切が無駄になってしまうのです。いのちより大切なものは他にはないのです。

 ですから、この世の物は、いのちの大切さから見るなら塵・芥です。何の価値もありません。それを私たちは信仰の目を持って見分ける必要があります。
これは、自分にとって価値があるのかないのか知ることが大切です。

 

1,キリストの死

 私たちはキリストが十字架にかけられたのを知っています。それは私たちの罪のためであり、私たちを滅びから救うためです。パウロはここで「あなたがたがキリストとともに死んで」ということばが出てきます。キリストの死は自分の死、自分の自我が死ぬことであると知る必要があります。

 ある酒乱の男性がいました。給料が入ると、酒を飲み暴れ、家族にも暴力を振るう。崩壊寸前でした。しかしある人に誘われ教会に行ったのです。そして十字架の話を聞きました。ついには自分の酒癖―罪を赦すのはキリスト以外におられない。信じたのです。

 そして酒癖の大元は自分の我にある。その自我がキリストと共に十字架に付けられた、そう信じたのです。すると心が軽くなりました。解放されたのです。そして何と、家族に今まで暴力を振るってきたことをお詫びし、赦され、そして家族全員が救われたのです。

 

2,悪霊と律法からの解放

 十字架には赦しの力があります。私たちを自由にします。ところがこの世には私たちを縛るものが二つあります。

 一つは悪の霊です。20節にこの世の諸々の霊とありますが、様々な悪霊が働きます。飲酒の霊、不道徳の霊、姦淫の霊、偽りの霊、様々な悪霊の元はサタンです。アダムとエバに巧妙に近づき、だまし、二人は欲望に負けて罪を犯したのです。とって食べてはならない木の実をとり、罪を犯したのです。サタンに負けたのです。

 しかしキリストと共に死ぬ、十字架によって欲望の自我は打ち砕かれ、死んでしまうのです。ですからそのような欲望が心に働かない。飲酒に捕らわれていた人が、酒を見ても飲もうとは思わない。喫煙の虜になっていた人がたばこを見ても吸おうとは思わない。酒に対してもタバコに対しても死んだ者となった。欲望の虜にならないのです。悪霊に対して勝利できるのです。

 もう一つは、人間の戒めや教え、別のことばで言えば人間の評価です。

 それも私たちの弱さです。人に良く思われたい、人によく見せたい。人の評価を気にしている。それがプレッシャーになり、ストレスとなる。自分自身を見失うことがあるのです。

 ある人は神社の境内を雨の日も雪の日も掃き清めました。自分の心に汚いものがある。
しかし自分の心は清くならなかったのです。ところがクリスチャンに誘われ、教会に行き十字架の話を聞いたのです。そして「御子イエスの血すべての罪より我らをきよめる。」「子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり!」自分の罪がすべて赦され解放され、喜びに満たされたのです。

 たましいの救いは、偶像を拝んだり、自分はだめな人間だと言って、自分を痛めつけたり、難行苦行することではありません。「私を愛し、私のためにご自分を与えられた、神の御子を信じる信仰によって生きるのです。」 (ガラテヤ2:20)

 キリストと共に死に、キリストともによみがえる。その信仰によって新しいいのちによって生きるのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「伝道の始まり」 マタイの福音書 4章12∼17節

 イエス・キリストがこの世にこられた最大の目的は、私たちを罪の滅びから救い出すためでした。皆さんご存じの通りキリストは十字架にかけられ死なれたのですが、それは私たちの罪の赦し、新しく生まれ、生きるためになされた神の御業であるのです。

 その始まりが、イスラエルの北部ガリラヤから始まったのです。

 


1,闇からの救い

 14節に預言者イザヤを通してとありますが、イザヤは紀元前700年も前の預言者でした。彼の預言は救い主が来られる約束でした。そしてそれが700年経ってその通りになったのです。それが15節と16節のことばです。

 ゼブルンとナフタリはイスラエルの北の果てです。そこはアッシリアに占領され、異邦人が住むようになったのです。ですから「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、南のユダヤの人たちは軽蔑していたのです。ガリラヤからは何の良きものが出ようか、と言われていました。

 ですから、救い主イエス・キリストガリラヤ湖のほとりのカペナウムにわざわざ住まわれたのです。

 もし、この世の栄光を受けようとするなら、ガリラヤではなく、ユダヤエルサレムに住みそこで生活し名声を得たとしても不思議ではありません。しかしキリストの目的は滅び行く人の救いです。社会の底辺に住んで何の喜びもない、希望もないそのような人たちをも救うためにこの世にこられたのです。

 


2,救いの光

 しかし、「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る」とイザヤは預言しました。
そのことはキリストにおいて成就したのです。キリストによって、病の者はいやされ、悪霊に取り憑かれた者は解放され自由となり、さげすまれている者には励ましと希望が与えられたのです。

 まさにキリストは希望に輝く光です。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ 8:12) 。
明るい希望の将来が与えられるのです。

 


3,人生の方向転換

 この時から言われたキリストのことばがあります。
「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と言われたのです。
悔い改めるとは方向転換することです。キリストの方に向きを変えることです。
十字架には力があります。私たちの心の罪を取り除く力があるのです。私たちの心の中にある否定的な思い、自己憐憫、人に対する妬みや憎しみから私たちを解放します。
キリストは愛の光をもって私たちを明るく照らして下さることができます。

 「私の目にはあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」とイザヤを通して神様は語られるのです (イザヤ43:4)

 そしてキリストの愛が私たちの心を守ってくださるのです。

 私が自分の力でするのではなく、キリストが私たちを導いてくださるのです。

 昔は大きな船が港に入るとき、タグボートが来て、その船長が代わりに舵を取ることがありました。キリストに悔い改めて従う。人生の舵をキリストに委ねることです。

 そうするなら、キリストはあなたの代わりにすべての重荷を負い、そして平安を与えて、天の御国へと導いてくださるのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「愛に生かされる」 コリント人への手紙 第一 16章13∼14節

 新しい年2024年が始まって1ヶ月になります。正月には思わぬ 大地震が起こりました。今も大変な中で生活をしておられます。

 困難な中で生きるためには何が一番大切か考える必要があります。

 

1,目を覚ます

 聖書に「目を覚ましていなさい」とあります。これは徹夜して頑張りなさいという意味ではありません。それは心の目を覚ますことです。見るべきものを見なさいという意味です。

 何を見るのか、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2) キリストを見るということです。
キリストを見ながら生活するそうするなら、力が与えられ回復し豊かになっていけるのです。

 東日本大震災のとき津波で会堂がすべて流された教会がありました。しかしそこに十字架を立て被災した人たちと共に礼拝を献げ、後に会堂も与えられ、救われる人たちも起こされた教会があります。

 私たちが意気消沈しうなだれる中に、十字架のキリストを見上げるときに慰めが与えられ、力を得て立ち上がることができるのです。

 


2,信仰に立つ

 アメリカの大衆伝道者であったムーディは「私は無神論を唱える人の中に、たった一人も『私は幸せだ。』という人に会ったことがない」と言ったそうです。

 なるほど、物事をいつも否定的に悲観的に考えている人はあまりニコニコしていないと思います。でも、神様がおられて私を守ってくださる。必要な物はすべて与えてくださる、と信じ切っている人は、おおらかで心のぬくもりを感じさせる者です。

 この手紙を書いたパウロもかつては、キリストを信じる人を迫害する人でした。非常に攻撃的でした。ところがキリストを信じた途端、心は変えられたのです。愛の人になりました。人を責めたり、暴力を振るうことがなくなりました。それどころか、暴力を受けても苦しめられても、相手を罵ったり、悪口を言ったり、自分はかわいそうな人間だとか、だめな人間だとは言わなくなったのです。キリストは彼の心を変えられました。

 なぜなら、彼は復活したキリストに出会ったからです。それによって人生が変わりました。キリストと交わることにより人生変わったのです。

 私たちはキリストを目で見ることはできません。しかし聖書を通してキリストの姿を見ることができます。信じることができます。

 弟子のトマスも見ないと信じられないと言いましたが、復活のキリストに会い、「わたしの手に指を入れなさい。脇腹に手を入れなさい。」と言われ、トマスは「わが主よ。我が神よ」と告白し、「見ないで信じる者は幸いである」と励まされ、彼はインドまで出かけて行って伝道しました。

 


3,キリストの愛に生かされる

 「愛をもって行いなさい」とパウロは言いましたが、私たちの愛は、打算的です。

 自分を愛する人を愛することはできても、自分を憎む人は愛せません。
しかし、キリストは自分の敵を十字架で赦しました。相手を殺すのではなく、自分が十字架に死んで敵意を、憎しみを、怒りを、悲しみを、十字架の上で赦されたのです。

 私たちは人を赦すことはできません。しかし、十字架には力があります。敵意を滅ぼし、和解する力を与え、人を赦し、愛することが可能になるのです。
「十字架は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である」(Ⅰコリント1:18)

 この十字架の愛の力を与えていただいて、喜んで愛するもの、苦しみの中にも神様に愛されているのだと思える。この信仰を持って生かしていただきたいと思います。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「主の弟子となる」 マタイの福音書 4章18∼25節

 私たちは生きていると、不思議ですが持ち物が多くなってきます。特に不要なものが多く残り、整理する必要が出てきます。以前、古いカセットテープがあり、処分したことがあります。もったいないと思いましたが、利用できなくて捨てましたが、きれいになりました。

 それはまた、信仰生活においても当てはまると思います。

 この世の色々な人間関係や、役割において、あれもこれもと多忙になったり、逆に物事に振り回されたり精神的に疲れてしまうこともあります。

 私たちは今一度、何が大切なのか、何が重要なのか考えなければなりません。

 

1,大切なものは何か。

 イエス様の伝道はガリラヤから始まりました。何にもないへんぴな田舎です。そこに漁師たちがいました。イエス様は彼らに声をかけ「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われたのです。

 魚をいっぱいとれる漁師ではなく、人間をとる漁師です。彼らは勘違いはしていなかったと思います。 純粋に人間が救われる。

 その働きを願ってイエス様について行ったと思います。

 余談になりますが、マタイは、馬太伝と漢字で書かれていました。ですから、昔町に来た農家の人が、露天の店先に並んでいる本を見て、てっきり馬の太らせ方だと思って買ったがそうではなかった。でも読んでいるうちにイエス・キリストのことがわかり救われたという話を聞いたことがあります。

 いずれにせよ、大切なものは何か。それは救われることです。イエス様の伝道は、「悔い改めよ、天の御国は近づいた。」と言うことでした。私たちに最も必要なのは永遠のいのちです。そして天国に入ることです。

 

2,一切のものを捨てる

 ペテロとアンデレは漁師でした。しかしイエス様の声を聞くと、すぐに網を捨てて従ったのです。その後にヤコブヨハネの兄弟も、イエス様が呼ばれると、すぐに舟と父親を残してイエス様に従ったのです。

 「すぐに」ということが大切です。おそらくそれは、どちらが大切か、よくよく考えてから従ったのではなく、ほぼ直感的に、彼らは捨てて従ったのです。

 特にヤコブヨハネは裕福な家庭であったと思われます。ガリラヤ湖の網元の家であったかもしれません。しかし、彼らもそうしたものを置いてイエス様に従って行ったのです。

 今年の正月に飛行機の衝突事故がありました。ニュース映像でも出ていましたが、CAさんが荷物を持たないで直ぐに脱出して下さいとアナウンスし乗客乗務員全員が無事だった。奇跡の脱出と言われましたが、もし、乗客が自分のバックやお土産を出して持って行こうとしていたらどうなっただろうかと思います。いのちほど大切なものは他にありません。

 

3,神様がすべてをなされる

 それではすべてを捨ててイエス様に従ったらどうなるのでしょうか。
「人間をとる漁師にしてあげよう」それはイエス様がなされることです。
自分がなるのではありません。イエス様に従い、すべてをおまかせするならイエス様がして下さるのです。

 事実、彼らはイエス様が十字架にかけられたときイエス様を裏切り逃げました。しかしイエス様の復活によって、彼らのすべての罪は赦され、その後人間をとる、たましいを救いに導く漁師にして下さったのです。それは人間の力でなるのではなく、神様がして下さる、神のわざです。

 イエス様は「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」 (マタイ19:29) と約束されています。

 日々の生活においても「まず神の国と神の儀を求めなさい。これらのものはすべて添えて与えられます。」「明日のことまで心配しなくてよいのです。」 (マタイ6:33,34) と言われます。

 私たちはキリストの弟子となりすべてを主に委ね、豊かに与えていただいて、喜びを持って従ってまいりましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「キリストに結びつく」 コロサイ人への手紙 2章18∼19節

 コロサイの手紙が書かれた目的は、イエス・キリストは神ではないと否定する人たちがいたことです。現代でも統一協会エホバの証人は、イエス・キリストは神ではないと言っています。明治の中頃でも、新神学・自由主義神学が入ってきて、これもキリストの神性を否定して、信仰が弱くなり伝道の力が弱くなってしまった時期がありました。

 その時に、バックストン師ウイルクス師が英国より使わされ、クリスチャンの救いときよめの恵みが明確にされ、聖会が各地で催され、伝道が活発化しました。

 ですから、私たちも生きた信仰そして間違った教えに対して見分ける力が与えられる必要があります。

 何年か前に、「珍味をいりませんか」と若い人が訪ねてきました。どこから来たのですか、と尋ねると教会から来ました。と答え、「ここも教会です」。と言いました。統一協会から来たのです。

 

1,異なった教え
  
 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者とありますが、昔の訳では「謙遜」となっていました。外面をとりつくものであり、見せかけのものです。またユダヤ人はそれぞれの守護天使の存在を信じ、礼拝する者もいたようです。もちろん聖書にも、ガブリエルやミカエルのような天使の名前が出てきますし、存在を否定することはできません。しかし、それを礼拝してはいけないのです。クリスチャンは真の神以外に礼拝をしません。ですからそのような人たちに批判されないように、しっかりとした信仰を持つ必要があります。

 

2,キリストに結びつく

 それでは、しっかりとした信仰とは何か。

 一言で言えば、キリストに結びつくことです。
キリストに繋がっている。キリストは教会のかしらである、とパウロは言っています。

 異端の人たちはもちろん、キリストに結びついてはいません。キリストの存在を否定はしませんが、キリストに従う生活をしないのです。反って、18節にあるような、自分以外他の人が見ることのできない幻想に依り頼んだり、この世的なものに惑わされないように注意しなければなりません。

 私たちの拠り所は神のことば、すなわち聖書であり、キリストが真の神、救い主であると信じる信仰です。そして私たちの大元はイエス・キリストご自身です。

 キリストは私たちのかしらです。そしてお互いはキリストの体を作り上げるものです。お互いがキリストの手であり足なのですそして、キリストの愛をいただいて、お互いが支え合っているのです。

 ですから、誰が偉いとか一生懸命やっていると言うのではなく、一体であり、共存しているのです。蟻の中でも働き蟻がいますが、働かないものもいるそうです。しかも、そんな蟻も仲間に餌をもらって生きているそうです。

 私たちはキリストの愛によってつなぎ合わされ、天の神様は空の鳥を養われ、私たちをも育てて下さいます。そして私たち自身はキリストに似た者、聖霊の働きの実を心にいただいて豊かに成長して行くことができるのです。

 そのことを私たちは喜び、感謝しようではありませんか。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

 

「主の回復のとき」 詩篇 102篇11∼18節

 この詩篇リバイバル詩篇と呼ばれています。なぜなら神様は必ず回復させて下さるとの約束があるからです。

 

1,弱さを覚えるとき

 私たちはいつも健康であれば幸いです。しかしときには弱くなることがあります。私もコロナに感染しました。12 月25 日に陽性と判明しました。体が弱くなると心も弱くなります。

 11節に「私は青菜のようにしおれています」とありますがまさにその通りです。元気がなくなりしおれてしまいます。

 私たちは元気になりたい、良くなりたいと願います。また神様に祈ります。しかしなかなか良くならない、時間がかかることもあります。どうすれば良いのか。

 それは祈ることです。この詩篇には題がついています。「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎだしたときのもの」とあります。
ですから、私たちの苦しみ、気落ちすることを神様の前に注ぎ出すことです。苦しみを祈ることです。嘆きを言うことです。


2,神のあわれみ

 神様はあわれみ深い方です。17節をみれば「窮した者の祈りを顧み 彼らの祈りをないがしろにされない」と約束されているのです。ですから私たちは苦しいとき嘆いて祈ったら良いのです。心にあるものを注ぎだしてドントン神様にお願いするのです。

 神様は、天の御座におられます。しかしじっとしておられる方ではないのです。13節を見れば、「立ち上がり、シオンを憐れんで下さいます。」私たちを見かねてあわれみ、立ち上がって下さるのです。ルカ15章の放蕩息子も、父親は息子を見るなり駆け寄っていっているのです。神様は愛の神です。私たちを放っておかれるような方ではありません。必ず回復を与えて下さいます。エレミヤ29:11には「わざわいではではなく平安と、将来、希望を与える」と約束されています。

 ですから青菜のようにしおれていても大丈夫です。慈しみのとき定めのときが必ず来ます。

 

3,心が新しくされる

 18節には不思議なことばが出てきます。「このことが後の世代のために」すなわち私たちのためです。なぜ苦しみにあった者が神様によって回復されるのか。私たちが知るための者です。そして私たちも同じようにして回復できるのです。

 新しく造られた民とあります。直接的にはバビロン捕囚から帰還した人々です。その人たちは、神様の赦し導きをいただいてシオンすなわちエルサレム、神の都を回復する人たちです。しかし彼らは帰ってきて泣いたのです。なにもない。神殿も城壁も崩されたまま。しかも周りには敵が多くおり、再建を邪魔する。途方に暮れたのです。
しかしネヘミヤやエズラは神の御ことばを持って彼らを励ましました。そして彼らは新しい力を受けました。それが新しく造られた民、心が全く新たにされたのです。なんと14節を見ると、しもべたち―イスラエルの民は、シオンの石を喜びシオンのちりをいとおしみます。とあります。
これはネヘミヤ44:2 に「焼けてしまった石を瓦礫の山の中から拾って、生き返らせようというのか」という嘲りのことばでした。しかし、新しい民はそれを喜び、いとおしんだのです。なぜなら彼らは全能の神に愛されている。約束どおりバビロンから解放された。主が共におられる。その信仰が彼らの力となり、神殿もエルサレムも再建されたのです。

 「主はシオンを建て直し、その栄光のうちに現れ」、とありますが、周りの国々、王たちは神の栄光を見て恐れたのです。

 ですから、私たちも同じ神の栄光に与ることができるのです。私たちも新しく造られた民です。それはⅡコリント55:17 「誰でもキリストのうちにあるなら。その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」私たちも、新しくされます。
キリストの復活の力によって私たちは新しくされ、嘆きや悲しみ苦しみが過ぎ去り、すべては新しくなって、主を賛美する者となるのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

 

「勝利の喜び」 歴代誌 第二 20章20~22節

 2023年は、コロナ感染、ウクライナパレスチナの戦争、物価高、異常気象等様々なことがありましたが、神様が共におられ守られたことを感謝します。

 今日の聖書箇所は、南ユダ王国、ヨシャファテ王の時代に、アンモン人モアブ人等が大軍を持ってイスラエルを攻めてくる状況にありました。

 

1,勝利を得る信仰

 ヨシャファテ王は人々に20節で「あなたがたの神、主を信じなさい。そして勝利を得よ」と語りました。なぜ彼はアンモン人モアブ人の大軍を前にしてそのように言うことができたのでしょうか。

 彼には確信がありました。その前に彼は祈ったのです。彼は恐れました。そして心に決めて、人々に断食して祈ることを求めたのです。いわば、彼の語ったことは信仰の確信でした。必ず勝利が与えられると。

 しかも、レビ人のヤハジエルは聖霊に満たされて「これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである」と15節で語っているのです。「堅くたって、主の救いを見よ」と宣言し(17節)、王を初め人々は主の前に平伏し礼拝したのです。


2,信仰と賛美による勝利

 なんと!彼らは出陣するとき、武装した者たちが前に出るのではなく、主に向かって歌う者たちと聖なる装いをして賛美する者たちが前に出て行ったのです。

 そしてなんと!彼らは武器を使うのでは無く、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と、喜びと感謝に満ちあふれた賛美を献げて行進したのです。

 すると、なんと!主は伏兵をもうけられたのです。(22節) おそらくこの伏兵は、イスラエル人ではなく、神の御使いであったかもしれません。そして、彼らは同士討ちをして、ついには自滅し、滅んでしまったのです。

 イスラエルの人たちは、戦わずして勝利したのです。これが主の戦いです。


3,勝利の喜び

 イスラエルの民は戦わずして勝ちました。そしてなんと!敵の持ち物を分捕り物として得ることができたのです。それらの物を運び去るのに、三日もかかったと言うことですから大量の物を得ることができたのでしょう。もちろん彼らは神様に感謝を献げることは忘れませんでした。ベラカという谷に集まって、主を喜び感謝を献げたのです。ベラカとは「祝福」という意味です。

 敵に対する勝利は大きな喜びとなります(27節) 。それだけではありません。その姿を見た周りの国々は、神を恐れ、イスラエルは神によって守られ、心底、平安が与えられたのです(30節) 。

 大切なことは何でしょうか。神様に対する信頼です。信仰です。

 全能の神はぜったいに守ってくださる。その信仰を持って、賛美する人たちが戦いの最前線に出たことです。彼らは武器を持っていませんでした。ただ主をほめたたえ歌っただけです。しかし、神様は敵に対して伏兵を置き、敵は同士討ちをして滅んでしまったのです。

 それが主の戦いであると言うことです。
私たちは争う必要はありません。主が戦ってくださり、私たちに勝利と祝福を与えてくださる。

 この信仰を持って新しい年を迎えましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)