柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「罪を赦す光」 ルカの福音書 1章77∼79節

 クリスマスおめでとうございます。ご一緒にクリスマスを祝うことができ感謝します。イエス・キリストは、私たちの救い主です。様々な悩み苦しみから私たちを救い出して下さいます。

 

1,平和に導いて下さる

 今、世界のことを考えると平和ではありません。パレスチナのガザや、ヨーロッパのウクライナでは戦闘状態です。多くの尊い命が失われ、女性や子ども弱い人たちが傷つけられています。一日も早く平和な日が来ることを祈る者です。

 この平和には、私たちの心の平安という意味もあります。年末になり、何かと慌ただしく動いているのではないでしょうか。

 まず私たちは自分の心に平安をいただいて落ち着いた行動をとりたいと思います。あれもしなければならない、これもしなければならない思うと気が焦り、失敗してしまうことも多々あると思います。

 誰が心を落ち着かせて下さるでしょうか。

 

2,曙の光が照らして下さる

 それはイエス・キリストです。キリストが私たちの心を明るく照らして下さるのです。色々な物事で、私たちの心がふさがれてしまうことがあると思います。しなければならないという責任に心が潰されてしまうのです。しかしそれを私たちから解放し、助け出して下さるのはイエス・キリストです。

 79節に「暗闇と死の陰に住んでいた者」とありますが、それは私たちのことです。

 この世は競争社会です。生きるためには、それぞれの場面で競うことがあります。
人よりも良くしなければならない。まただダメにならないように頑張らなければならない。その思いに囚われて余裕を失い、心がくらくなってしまうのです。

 その重荷を取り除いて下さるのがイエス・キリストです。

 「すべて重荷を負って苦労している者はわたしの元に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言っておられるのです。

 しかもキリストは、私たちの所に来て下さる方です。「いと高き所から私たちを訪れ」とありますが、天の御座から降(くだ)ってこられ、私たちの所に来て下さるのです。

 訪れるとあるのは、まさに重病人をお医者さんが訪問診療するようなものです。来て私たちを手当てして下さるのです。私たちの暗く沈んだ心を希望と喜びで明るく軽くして下さるのです。

 

3,罪が赦される

 その希望の光とは何でしょうか。それは罪の赦しです。

 罪とはなんでしょうか。殺人や窃盗もそうですが、うそをついたりだましたり、果ては悪口を言ったり憎んだり、心の中で思うことも罪です。もちろん神に逆らうこと従わないことも罪です。すべての人は「罪人」と言われています。

 しかし、神様は愛の方であり、そのあわれみによって私たちを救われます。

 77節に知識を与えるとあります。それは聖書です。聖書を通して私たちに、自分の罪を教え明らかにしそして私たちを、暗闇と死の陰から救い出して下さるのです。

 そのために父なる神は、救い主イエス・キリストを私たちに遣わして下さったのです。

 私たちはまず、自分の内側にある心の闇、すなわち罪を取り除いていただき、心に希望と喜びを与えていただいて、平和の道を歩ませていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「信仰の本体」 コロサイ人への手紙 2章13∼17節

 もうすぐクリスマスです。クリスマスはキリストの誕生を祝います。しかし多くの人はごちそうを食べ、プレゼントを交換したり楽しいときと受け止めています。
それも感謝なことですが、クリスマスの本体はイエス・キリストです。キリストが私たちになして下さったことを感謝しお祝いするのがクリスマスです。

 

1,背きを赦された

 キリストがなされた一つのことは、「私たちのすべての背きを赦し」て下さったことです。私たちは何に背いたのでしょうか。それは、創世記3章に出てきます。

 神様に背いた、ということです。最初に造られた人間アダムとエバは、すべてのものが与えられて幸福に生きていました。ところが、サタンがヘビに化け近づいて彼らにうそを言い、だまし、罪を犯させたのです。それは、園の中央にある木の実を食べれば神のようになれると言って騙し、神様との約束を破り罪を犯させたのです。彼らは神様から隠れました。悪いことをすると、隠そうとします。言い訳をします。そして自分を棚に上げて人を非難するのです。それが罪の姿です。
アダムは、エバが食べろと言った、だから食べたんだと自己主張しました。一言もお詫びをしたり、誤ったりしなかったのです。今も同じです。「私が悪かった。ごめんなさい」と謝らないのがこの世の姿です。

 ですから、人間はたましい―心の死んだ者であると聖書は言っています。そのような状態から、私たちの罪を赦すためにキリストはこの世に来て下さったのです。最大のプレゼントは、美味しいごちそうでも、新しいおもちゃや物ではありません。私たちの心の中にある負い目、心の苦しみが取り除かれることです。

 

2,負い目が赦される

 14節に「債務証書」とあります。それは借金、借用書のことです。いくら借りたかそこに書いてあるのです。なんでこんなことが聖書に出てくるのか。それは私たちの心に負い目があると言うことです。

 借金は、働いてお金を貯めれば返すことができます。でも、私たちの失敗や過ち、心の中にある負い目をどうすれば取り消すことができるでしょうか。それにはたった一つだけ方法があるのです。それを「十字架に釘付けにして取り除いて」もらうことです。
十字架とは、キリストの十字架のことです。キリストの十字架は、私たちの罪の赦しのためでした。それは、お金や物、行いで取り消すことのできない心の傷を、十字架で赦される、癒やされる、跡形もなく取り除いていただける。その罪の赦しを受けることです。これを信じることで頂けるのです。これ以外に救われる方法はないのです。

 青年たちがボートで遊んでいました。悪ふざけが高じて転覆し落ちたのです。近くの人が助けに来ましたが、一人は救助され一人は溺死しました。助かった青年は悩んだそうです。無二の親友が死んだ。助けられなかった。見捨てて、救助の人にしがみついて助かった。でも自分は見殺しにしてしまった。
心が傷み、なぜ助かったのか。なぜ生きているのか。苦しんだそうです。自分は罪深い人間だと悩み、あるとき知人に誘われ、教会に行きキリストのことを聞きました。そして自分のような物でも罪が赦されますかと牧師に相談し、すべてをキリストにお任せし、十字架は自分の罪のためでしたと告白したのです。
明くる日、教会の戸をたたく音が聞こえました。その青年が立っていたのです。牧師を見るなり「手が出ませんでした」と言ったのです。夢の中で悩まされていた親友の手が出なくなった。ぐっすり眠れたと証ししたのです。

 

3,キリストの勝利

 この世では戦いがあります。私たちは、言葉や態度で立派に見せかけ戦っています。しかしキリストは私たちから鎧や兜を外して自由に快適にして下さいます。キリストは十字架に架けられて死なれましたが、死の中からよみがえられ死に勝利されたのです。
私たちはキリストの勝利の凱旋に加えていただけ、天国に入ることができるのです。もう何かを守らなければいけない、立派な人間として振る舞わなければならない、規則に縛られる生活から解放され、身も軽く自由に生きる生活ができるのです。キリストがその本体です。

 クリスマスはキリストが生まれた日ですが、キリストを心にお迎えするなら、毎日がクリスマスになるのです。私たちの心にキリストをお迎えし、喜びを与えていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「主は近い!」 ローマ人への手紙 13章11∼14節

 今日から、アドベント待降節)になります。クリスマスが近づいているのを感じさせられます。クリスマスを待ち望むときですが、私たちには、もう一つの大切な神様の約束があります。それは、イエス・キリストが再び私たちのところに来て下さることです。

 

1,今は救いの時である

 この手紙はパウロからローマにいるクリスチャンたちに宛てられた手紙です。
今でこそキリスト教の国ですが、パウロの時代は全く異なりました。

 当時の神はローマ皇帝でした。ですから皇帝を崇拝しないクリスチャンは無神論者と言われていたのです。ですから信仰の戦いも数々ありました。

 その彼らを励ますためにパウロはこの手紙を書いたのです。パウロは「今がどのような時であるか知っています。」と言いました。

 この「時」と言う言葉には、大切な意味があります。カイロスという、特定の定まった時を表す言葉が使われています。クリスマスの時といえば、12 月25 日と答えが返ってきます。キリストが誕生されたとき、もっと厳密に言えば神であるキリストがこの世に人となって生まれたとき、と言えます。難しい言葉では、初臨と言っています。

 パウロがここで言っているあなたがたは知っている。それは再臨のときです。

 イエス・キリストは弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。そして再び来ると約束されたのです。クリスチャンの希望は、キリストが再び来て下さる、ここに望みがあるのです。

 

2,昼が近づく

 今は闇の時代です。先が全く見えません。希望も持てません。ある人は、この世で長生きしたいと思わない。PPK だ。と言っていました。PPK とは、「ピンピンコロリ」の略語だそうです。この世には希望は持てません。ウクライナで長く戦争が続き、パレスチナでも戦争状態にあります。この世には完全な平和はないのです。また気候変動も年々激しくなっているように思われます。日本でも、阪神淡路大震災東日本大震災が起こり、次は東南海大地震だといわれています。まさに困難な時代の中に私たちは生きているのです。

 しかし神様は私たちに生きる希望を与えられます。

 キリストが私たちを天の御国に迎え入れて下さるのです。神様は私たちに復活のいのち永遠のいのちを与え、心に生きる希望を与えて下さるのです。闇のようなくらい心でなく、愛と希望に満ちた明るい心を私たちに与えて下さるのです。

 

3,キリストを着る

 そのためにパウロはローマのクリスチャンに命令しました。「主イエス・キリストを着なさい。」それはキリストの性質を自分の身に付けることです。
そのためにはまず、かくれた闇のわざを脱ぎ捨てなければなりません。リビングバイブルでは「どんちゃん騒ぎをしたり、酔っぱらったり、姦淫したり、肉欲にふけったり、争ったり、ねたんだりして時間を浪費してはなりません。」「 あなたがたの行為は正しいと、だれからも認められるよう、何をするにも、りっぱに、誠実にふるまいなさい。」とあります。

 キリストは、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、罪の代価を支払われました。
十字架を見ながら罪を犯すことができるでしょうか。そのような古き人は脱ぎ捨て、キリストの愛に包まれ、キリストの愛そのものに生きる。パウロは「私はキリストとともに十字架に付けられた。もはや自分が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのである」 ガラテヤ2 :19,20 と宣言したのです。

 私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、キリストを着て、キリストによって生かされる、励まされる、力を頂いて、喜びに満たされた生活をさせて頂きましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「怒りを取り除く」 エペソ人への手紙 4章26節

 現代社会はストレスの時代だと言われています。いかにストレスをコントロールするかが、私たちの生活を安定させ、喜びに満ちたものになるか、カギとなります。

 最近よく、パワハラという言葉を耳にします。また、ニュースにもなったりしています。政治家がパワハラのために辞任したようなことも聞きます。いわば自分の怒りが、自分自身を苦しめることにもなりません。

 アンガーマネジメント、怒りの抑制の講習会もあるくらいです。
どのようにすれば、自分の怒りをコントロールできるようになるのでしょうか。

 

1,怒ってもかまわない

 聖書では「怒っても」と出てきます。実は、怒ってもいいのです。むしろ、私たちは怒りを内にためてしまうと、自分自身が苦しくなり、自分を責めてしまうことにもなります。ですから、聖書には怒ってはならない、とは言っていないのです。但し、その怒りをずっと持ち続けていてはいけないのです。

 「憤ったままで日が暮れるようであってはなりません。」と忠告されています。
なぜ、「日が暮れる」と、あるのか。それは次の日まで持ち越してはいけないと言うことです。ユダヤ人の一日は日没から始まります。とにかく、怒りや憤りを長く持ってはいけないのです。その日のうちに解決しておく必要があります。

 

2,罪を犯してはならない

 聖書が指摘しているのは「罪を犯してはなりません。」と言うことです。

 罪とは何か。的外れと言うことです。

 聖書で言う的とは、愛すると言うことです。神を愛し、人を愛する。神様は愛の律法を人間に与えられました。しかし、人間はそれを行うことができなかったのです。

 私たちも、生まれながらにして、人を愛することは分かりませんでしたし、何事も自分中心に考えて生きてきたのではないかと思います。
自分の利益、自分の幸せ、自分さえ満足できたらそれでいい。人のことなど関係ない、自分さえよければと言う思いがあったのではないかと思います。

 聖書には、怒りの起源が記されています。

 それは創世記4章5節に「カインは激しく怒り、顔を伏せた。」とあります。それが怒りの始まりです。なぜ怒ったのか。神様は自分を顧みられなかった。弟アベルを喜ばれた。その思いが、彼の怒り、そして殺人に繋がっていったのです。
もし、その時、彼の怒り憤りが鎮められたら、人殺しにはならなかったでしょう。どうすればその怒りを静めることができるでしょうか。

 

3,罪の解決

 怒りは、私たちの感情、心の表れです。正義感の怒りもあります。昔は雷親父がいました。悪いことをしたら怒る。いたずらをして怒鳴られ、叱られたものです。
それによって善悪を学ぶこともできたかと思います。今では叱ってくれる人、忠告してくれる人も少なくなったかもしれません。 しかし、それを持ち越してはならないのです。

 解決が与えられなければ、心に喜びも平安もないのです。ある方は、心に憤りを感じて、相手に3年間、口をきかなかったそうです。 最初は怒りで、口をきかなかったのが一週間、一ヶ月、一年と延び、気まずくなり、人間関係が悪化してしまった。
悩みに悩んで、教会に行く機会が与えられ。そこで解決を得たそうです。

 それはイエス・キリストです。イエス・キリストが十字架の上で自分の怒り、憎しみ、憤り、心のあらゆる罪を受け止めて、身代わりとなり死んで下さった。

 そのキリストを信じたとき、自分は赦された。そして愛されている。口をきかなかった友人にも、そのことをお詫びして、仲直りすることができた。と証しされていました。ヨハネ1章29節「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とあります。イエス・キリストは私たちの内にある、すべての罪を代わりに受けて、十字架で死に、解決して下さったのです。

 キリストによって、赦されすべての怒り憤りを十字架で受け止めていただき、愛されて生かされる者とさせて頂きましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「神に感謝する」 詩篇 103篇 1∼5節

 今年も11 月になり急に寒くなりました。アメリカでは「感謝祭」のお祭りが行われます。イギリスから移民として渡ってきた人たちが、寒い冬を越せない。その時先住民の人たちが穀物を分け与え、そして収穫の感謝をともに献げたのが始まりと言われています。

 今日は私たちも、収穫を与えて下さる「神に感謝する」このことを詩篇103篇11~5 節から学んでまいりましょう。

 

1,主がよくして下さった

①「咎を赦し」、とありますが、ダビデには責められるところがありました。
 姦淫の罪を犯したということです。しかし、その罪も彼は認め、告白し、赦されたのです。そのことをダビデは感謝しました。私たちも自分の心に咎めるものがあるならば、すべて十字架のキリストに告白し、赦し、きよめていただいて神様の前に出るものとさせていただきたいと思います。

②「すべての病を癒やされる」神様はまた、私たちのすべての病を癒やして下さる方です。
 ヒゼキヤという王様は、不治の病にかかりました。しかし、彼は神様に心を注いで祈ったとき、彼の病は癒やされたのです。そして、主なる神をほめたたえました。新約聖書を見るときに主イエスも多くの人を癒やしています。12 年間長血を患った女性も、イエス様の衣の房にさえ触れれば癒やされると信じて、癒やされたのです。

③ 「いのちを穴から贖われる」キリストは癒やすだけではありません。
 死人をよみがえらされることができるのです。会堂司の子どもや、ベタニヤのラザロをもよみがえらされました。穴から贖われるとは、死んでいく者に対して、自分が身代わりとなり、いのちの代価を払って、私たちを神のものとし、どんな悪人でも罪が赦されて天国に入らせていただけるのです。

 

2,一生を良いもので満ちたらせる

 良いものとは何でしょうか。神の恵みとあわれみです。恵みとは受ける資格がないのに与えて下さる幸い幸福です。物質的にも必要なものが与えられ、衣食住も神様は与えて下さいます。空の鳥を見よ、とイエス様は言われました。蒔くことも刈ることもしないけど、天の神様はこれを養っておられる。野の花を見よ、ソロモン王より着飾らせてくださる。あなたがたはこれらのものよりもまさったものではないかと言われました。

 そして、神様はあわれみ深い方です。傷つき弱ったものをあわれみ、くすぶった灯心を消すこともなく、折れた葦をもおられない、飼う者のいない哀れな羊をも養って下さる方なのです。それは今日、慰め主御聖霊によって、神様のあわれみは私たちの心に注がれ、慰めと力が与えられるのです。

 ローマの牢獄にいたパウロは、目も不自由な状態でしたが聖霊に満たされ、喜びと感謝に満ちあふれて、神様からの手紙を書き励ましを与えたのです。
私たちが生きている一生の間、神様は私たちの心を喜びでみたし聖霊によって溢れさせて下さいます。

3,私たちは新しくなる

 「あなたの若さは、鷲のように新しくなる」とあります。鷲は羽が生え替わるそうです。その時、体を岩にぶつけて古い羽を振り落とし、新しい羽が生えるのを促進させるそうです。それは体を傷つけることであり痛みがあります。

 私たちの信仰も痛みを伴うものです。苦しみもあります。しかし、キリストの十字架によって痛み悲しみつらさが取り除かれ、私たちの心は新しく造られます。
過去のものにまさって新しい素晴らしい未来が約束されているのです。復活のいのちに与るのです。そのことを私たちは信じてさらに信仰に励まさせていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「キリストに満たされる」 コロサイ人への手紙 2章8∼12節

 今の時代はインターネットにより世界の情報が瞬時に伝わる時代です。また色んな情報が氾濫し何が本当か分からないことがあります。うそのニュースフェイクニュースや生成AIによる合成された偽物、様々なものに取り囲まれています。

 

1,この世のものに囚われない。

 パウロの時代にも、心が引っ張られるものがありました。8節に、「空しいだましごとの哲学」とあります。哲学は立派な学問です。知的好奇心をそそるものです。しかしそれは心を満たすものではありませんし、ましてや永遠のいのちを与えてくれるものではありません。
それは人間による言い伝え、人間の考えであり、世のもろもろの霊すなわち神から出てこない霊的なもの この世の宗教といった類のものであり、私たちを救いに導くものではないのです。

 

2,キリストに満たされる

 それでは何が私たちの心を満たすでしょうか。満足を与えるのでしょうか。それはキリストです。キリストこそ私たちのたましいを満たし、喜びを与えて下さる方です。
いわば無限の貯水池です。バックストン師が日本に来られたとき、ナイアガラの瀑布を見られたそうです。そのような滝はイギリスにも日本にもありません。まさに水煙を上げて流れる滝に圧倒されたそうです。

そして、2 回目に日本に来られたときにももう一度ナイアガラの滝を見られたそうです。十数年たっても変わっていなかったそうです。それを見て聖会の説教で「ナイアガラの滝は何十年何百年経っても変わりません。聖霊の流れも永遠に変わらないのです。サタンはチョロチョロとしか流れていないと言います。しかし、サタンは嘘つきです。」今も変わることなく聖霊の流れは大河となって流れ潤しているのです。彼は嘘つきです。と語られ、聖会は大いに祝され溢れる主の恵みに一同満たされたのです。

 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質―神の愛、きよき力、心の満足、自制、柔和、謙遜といった聖霊の実が、私たちの内に宿り、ナイアガラの滝のように注がれ満ちあふれるのです。

 

3,キリストの割礼―十字架

 キリストに心が満たされるためには、肉のからだ、すなわち自分の自我、自尊心や心の欲望を取り去ることです。どのようにして私たちは、肉の欲を脱ぎ捨てることができるでしょうか。
パウロは11節で「キリストにあって、人の手によらない割礼を受けました。」と言っています。キリストの割礼とは十字架のことです。私たちは肉のからだすなわち、心の中にある欲望を、自分の自尊心すなわち自我と共に捨て、葬り去ることが必要です。

 いつまでも肉の思い、欲望に自我に捕らわれないことです。どのように自我から解放されるのか。それはキリストの十字架です。パウロは私はキリストと共に十字架につけられた、と告白しました (ガラテヤ2:19,20)。
十字架につけられる 磔殺の信仰が必要なのです。 そして、バプテスマにおいてキリストと共に葬られることです。聖霊バプテスマを受けなければなりません。キリストともに十字架に付けられ殺され、キリストとともに葬られ、捨てられ、キリストとともによみがえらされる、新たな自分はキリストに従うものとなるのです。

 それは神の力を信じることです。死んだ者を生き返らせることができる。神は新しいいのちを与えることができる。神様は私を造り変えることができる。そのことを信じて委ね、全能の神を信じて生きることです。

 もはや自分の思い、力で生きる必要はありません。キリストが生きて下さる。そしてキリストが私の心を満たして下さる。私を生かして愛して下さるのはキリストである。そのことを信じ、キリストの愛に満たされて、神に感謝するものとさせていただきましょう。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「神の義に生かされる」 ペテロの手紙 第一 2章24節

 ペテロの手紙は、1世紀後半60年代に書かれたと言われています。
宛先は小アジア―トルコに離散した異邦人のクリスチャンでした。彼らは信仰の迫害に遭っていたと思います。彼らを励ますためにペテロはこの手紙を書きました。

 キリスト教のシンボルは十字架です。ここにも十字架が出てきます。私たちの救いの根拠はこの十字架にあります。

 

1,自ら進んで

 イエス・キリストが十字架に架けられたのは、強制でもなければ自動的なものでもありません。「自ら」自分から、進んで十字架に架けられたのです。

 そこには目的がありました。それは私たちを罪の滅びから永遠の滅びから救うためであったのです。その目的のために、喜んで十字架にかかって下さり、いのちを捨てて下さったのです。

 キリストは「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と言われました。

 確かに十字架を負うことは苦しいことです。しかし十字架は一人で負うものではないのです。実は、イエス様が共に負って下さるのです。それは、「私のくびきは負いやすく、荷は軽いのです」と言われたことから分かります。

 自分で負おうとするからしんどいのです。嫌になるのです。でも、イエス様が一緒に負って下さる。イエス様が共にいて励まして下さる。しかも、イエス様の方がほとんど負って下さる。そう信じるなら荷は軽くなるのです。

 

2,罪を完全に赦すため

 十字架の目的は罪の赦しです。

 私たちは自分で自分の罪を赦すことができるでしょうか。できないのです。
罪を隠すことはできます。分からないようにすることはできます。しかし、自分で自分の罪を赦す。罪から解放されることはできないのです。

 唯一できるのはキリストです。罪を犯されなかった方が、身代わりとなって私たちの罪の代償、すなわちご自分のいのちを捨てて、私たちの罪を赦して下さったのです。

 それは私たちが罪から離れるためでした。
罪を犯したらこのようになるのだと身代わりに十字架の裁きを受けてくださったのです。十字架の姿を見てそのようになりたいとは思いません。罪から離れ、罪に背を向け、そして神様に喜ばれる正しい生き方、すなわち義に生きるために、自らが十字架に死んで罪を赦して下さったのです。

 

3,癒やされるために

 そしてもう一つの大きいことは、癒やされるためです。

 キリストの十字架には力があります。私たちは癒やされなければなりません。色々な悩み不安そして罪の苦しみから解き放たれて自由になり、その傷が癒やされることです。

 江戸時代に日本の神道を研究していた本居宣長は、床の間の柱に釘を打ったそうです。それは自分が悪いことをしたら釘を打つ。そしてよいことをしたら釘を抜く。彼は精進してよいことをするように励みました。
釘を打ったり抜いたり、続けていきました。精進の甲斐あって、全部釘を抜くことができたそうです。しかし、その時にはっとしました。なぜなら、釘は全部抜けたのでしたが、床柱は釘跡だらけになっていたのです。

 イエス・キリストは私たちを癒やして下さる方です。人の力で消せない心の傷をも癒やされる方です。私たちの代わりに身代わりとなって、釘打たれた方です。そして私たちの罪を赦し、罪の跡形もなくなるように新しくして下さるのです。
「キリストにあるなら、その人は新しく造られた者、すべてが新しくなったのです。」(Ⅱコリント5:17)

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)