柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の知恵たる十字架」 第一コリント2章1-9節

 パウロは、1章から2章にかけて、繰り返し十字架について語ります。わたしたちの救いの根拠は十字架以外にないことを徹底して語っています。当時の人々は、十字架しか語らないパウロに対して、キリスト教はそれだけなのかと嘲笑っていたのです。今も人々は、キリスト教信仰の単純さ、十字架の救いに対する信仰の単純さに嘲笑の目を向けます。そこでパウロは、十字架だけを誇りとすると叫ぶ一方で、隠された奥義としての神の知恵を語ります。


1.隠された奥義
 信仰の世界には、一般には知り得ない隠された部分、誰にでも明らかにはしない領域と言うものがあります。空間的にも立ち入れない部分(至聖所とか神域と呼ばれるところ)があったり、その教義にも知り得ない部分があります。
 一方、人間は何でも知りたがる存在であり、知ることに満足する存在です。
 しかし、人間の知恵には限界があり、神の知恵は永遠であり絶対です。信仰はすべてを完全に知ることではなく、神に知られていることに満足し、そこに喜びと平安を見いだすことです。
 信仰の真理について説き起こしたパウロは、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。ローマ人への手紙11章33節」と記しています。
 知るべきでない領域があると言うことを知らない、と言うことは恐ろしいことであり、神に対する畏れを失う結果を招来させます。人は、何でも知っているかのように振る舞い、神を畏れない存在になってしまっています。しかし、現実には、人は神に造られた者ですから、神が明らかにして下さることしか知り得ないし、それで満足すべきなのです。それについては「神がわたしたちの(受ける)栄光のために、世の始まる前から、あらかじめさだめておかれたものです7節」と記しています。


2.十字架の栄光
 神の知恵とは、わたしたちの救いにかかわる知恵です。わたしたちの救いについて、これは「人の知恵に支えられず 5節」「隠された奥義として 7節」「この世の者はだれひとりとして悟りませんでした 8節」と、三つのことが記されています。要するにわたしたちの救いは、神だけの知恵、神独自のご計画だったのです。神以外だれもこの計画に加わった者はいません。
 「もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。8節」とは、実に不思議なことばです。主イエスの十字架は、宗教家たちの嫉みの結果のように見えますが、実は隠されていたけれども、すでに神がわたしたちの救いのためにご計画されていた事だったのです。ですから十字架は、敗北の姿ではなく、神の栄光のあらわれなのです。ここに神の知恵があるのです。


3.想像を越えた救い
 この十字架の救いが神の知恵、神の奥義であると確信する根拠は何かと言えば、それは聖書にあかしされています。預言者イザヤは主イエス来臨の700年も前に、すでに十字架の救いの計画を語っています(イザヤ書64章4節)。それをパウロはここに引用して「目がみたことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの 9節」と記します。
 神が人となられてわたしたちの救いのために十字架に死なれる、と言うことは、だれも想像しなかったことであり、人の経験になかったことであり、それは全く神の恵みのみ業と言うほかないのです。
 信仰生活は、このことを忘れないことです。これがどれほどのことかと言うことを忘れてしまうことは信仰の危機であり、信仰の力が失われる結果を招きます。十字架を語らないキリスト教は力を失います。
 神の知恵は、わたしたちの救いにために用意して下さった十字架の内にこそ隠されていたのです。それはわたしたちの想像を越え、理解を越えた出来事ですが、だから信じられないと拒否するのではなく、信じて満足すべきです。信じて受け入れるときに救いは成就するのです。

                           (説教者:柏原教会 協力牧師 岸本 望)