柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主を待ち望む」イザヤ40章27-31節

2013年もいよいよ終わり、新年を迎えます。今年も様々なことがありましたが、神様は私たちに新しい希望を与えて下さいます。


1,人間の弱さ

私たちは限りのあるものです。完全ではありません。弱さがあります。30節を見ますと、「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」とあります。
イザヤは今から2700年以上も昔の預言者です。イスラエルは北の大国バビロンに滅ぼされるという大変な状況にありました。その中で、イザヤは人々に神に立ち返るように神の言葉を語ったのです。しかし、人々は聞き入れず、人の力を当てにし、やがては滅びに行く道をたどることになったのです。もし、そのとき彼らがイザヤの語ることに耳を傾け、神に従って行ったらイスラエルは大きく変わっていったことでしょう。滅びの道ではなく、祝福の道を彼らは歩むことができたのです。
それは、私たちにも当てはまります。現実の困難に直面し、嘆く弱さが私たちにあるのです。27,28節の言葉は、まさに神への嘆きであり、弱さを露呈している言葉です。「神様は顧みてくださらない」「神様はご自分を隠しておられる」「神様は祈りを聞いてくださらないのだ」と言った嘆きです。私たちは、なかなか祈りが聞かれないということを体験します。それは、神様が悪いのでしょうか。意地悪をされるのでしょうか。そうではありません。私たちの罪が私たちの咎が、神様との間をへだて、私たちの不義の故に聞かれないのです。ですから、私たちはまず、神の前にへりくだらなければなりません。また、心の中に罪が示されるなら、それを神様に告白し、赦しきよめていただかなければなりません(?ヨハネ1:9)。そうするならば私たちは信仰の回復が与えられ、もう一度神様の祝福に与るものとなるのです。


2,主を待ち望む

それでは、私たちは何をなすべきでしょうか。31節にあるように「主を待ち望む」ことです。主とはだれでしょうか。28節に「永遠の神、地の果てまでの創造者」とあります。永遠から永遠におられる方であり、全てのものを造られたお方です。全能の神なのです。
問題は、私たちがどれだけ神を信じ、従って行くかという信仰です。信仰は心の中に思うだけのものではありません。必ず外に現れます。私たちの言葉や行いとなって、心に信じていることは現れてくるのです。
イザヤの当時の人たちは、頭では信じることはわかっていても、実際には神を頼みとしないでエジプトや人の力を当てにしたのです。私たちも、神を信じているということをどのようにして表すでしょうか。
イザヤは「待ち望め」と言いました。信じて待つことです。そして、希望を持って待つことです。そのことを、聖書の中に出てくる信仰者たちはおこなったのです。アブラハムダビデ、ヨブなど様々な人たちは神を待ち望みました。そして、計り知れない恵みをいただいたのです。
私たちも同じです。神を待ち望むことです。そうするなら、新しい力が与えられます。その力は、私たちを引き上げ、走っても歩いても疲れない、たゆまない力です。
その力は、私たち自身と言うよりも聖霊による力です。イエス様の弟子たちも、待ち望みました。あの十字架に架けられたエルサレムにとどまって待ち続けたのです。ただ待っていたのではありませんでした。祈って待っていたのです。私たちも同じです。祈って待つのです。教会では、そのために週日に祈祷会があります。早天祈祷会があります。それは、祈り待ち望むことです。そうするなら必ず、ペンテコステの力が与えられるのです。
鷲のようにとあります。二つの意味があります。一つは、羽が新しく生え替わることがあるそうです。ときには岩にぶつけて古い羽を落とし、新しい羽が生えるのを待つのです。
私たちも、キリストによって新しくしていただくことです(?コリント5:17)。キリストによって新しくしていただくことです。
第二のことは、聖霊が私たちを引き上げてくださることです。翼をかってとありますが。新しい羽を広げて、谷間の上昇気流に乗るのです。力はいりません。風が運んでくれるのです。まさに、聖霊風が吹くとき私たちは引き上げられ、倦まず、たゆまず、疲れることなく昇ることができるのです。
私たちは新しい年を待ち望みましょう。自分の力ではなく、神様が私たちを引き上げ、信仰の高嶺に昇らせてくださる、そのことを信じて待ち望みましょう。


          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)