柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「見よ、あなたがたの神を」イザヤ35章1-10節(マタイ11章2-6節)

 今日は、教会暦では待降節第3主日となっています。待降節が何のために定められているのかと言えば、そこには二つの意味があると思われます。
 一つは、過去における神の御業を記念することであり、二つには、来るべき神の御業を信仰と希望を持って待つと言うことです。
 旧約の歴史は神の約束を待望する歴史でした。歴史とは待望することだと言えます。しかしそれはまた、実に困難なことでした。なぜなら神の約束には、日時が記されていないからです。
 人はさまざまな約束を交わします。しかし、その約束が実現しないこともあります。しかし、神の約束は、わたしたちが交わす約束とは根本的に違います。それは必ず実現するという神の真実です。人がみな不真実だと言うのではありません。しかし、人には力の及ばない事があります。愛はあっても力が無いために実現できないこともあるでしょう。しかし、神は愛と力を持って居られる方です。ですから約束は必ず実現するのです。
 今や、教会は、主が再び来てくださる約束を信じて待ち望むことが期待されています。そればかりか家族の問題、健康の問題、将来のこと、そして教会に与えられたビジョンなど、救い主を送ってくださった神のご真実を喜び記念すると共に、神の約束に対する信仰と希望を新にするのです。

1.捕囚の民に
 イスラエルの民のバビロンにおける70年は、絶望的日々でした。エルサレムへの道は遠く危険でした。荒廃しきった祖国を思うとき、その胸は張り裂けそうです。バビロン捕囚に限らず、イスラエル人の歴史は、広く散らされた離散の民となって苦しみ喘ぐ歴史の連続でした。
 そのときイザヤの預言が思い出され、その約束が語り継がれます。
「見よ、あなたがたの神を。・・・神は来て、あなたがたを救われる。」
 何時かわからない、しかし必ず実現する。そのことを語るのが預言者の使命でした。そして、喜びの帰還の幻の間に、これを待望する者への勧め、励ましが語られるのです。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ」

2.現在、信じる者に
 イザヤの預言は、イスラエル人がバビロンから祖国に帰ることによって成就しましたが、さらに主イエスの来臨によって、現在信じる者たちの内にも実現したことです。
 かつてバプテスマのヨハネが、イエスのもとに弟子を遣わして尋ねさせました。「おいでになるはずの方は、あなたですか マタイ11章3節」と。この問いに主イエスはイザヤの預言のことばをもって答えられます。「目の見えない者が見、足の萎えた者が歩き・・・貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」と語られ、イザヤの預言が成就していること、そして約束の救い主は自分であることを明らかにされたのです。
 バプテスマのヨハネ同様に、イエスが果たして救い主かと思い惑っている人は、今日もなお多くいます。その中で、わたしたちは信仰によって、霊的な目が開かれ、耳が聞こえるようになり、聖書の中から神のみ声を聞くことができるようになったのです。今は真理の道を歩むこともできるようになりました。
 しかしこの預言は、主の再臨によって、文字通り世界的規模・宇宙的規模で実現することでしょう。

3.待望の群れとして
 教会は待望の群れです。預言者を通して語られた神の約束が、世界的規模で実現することを待ち望みます。そのために待望の群れに期待されることは、「弱った手を強め」ることです。これは堅く握ると言うことです。約束を信じて動かないことです。「よろめく膝をしっかりさせよ」。膝とは祈りを意味します。祈りを怠らないことです。信じて祈り続けることです。「見よ、あなたがたの神を」。これは、あなたがたの神は居られると言う意味です。
 いつも共に居て下さる主を信じ、神の真実を信じて、約束の実現を信じ続けるのが、「待望の群れ」教会のあるべき姿です。

         (説教者:柏原教会協力牧師 岸本 望)