柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「心を見ておられる主」マルコの福音書12章35-44節

 主イエスと律法学者の対話(28〜34節)、律法学者についての主イエスの言葉(35〜37節)のつながりの中で、律法学者の暗い面が証言され(38〜40節)、それと対比するように明るい面、すなわち主イエスが良しとされる出来事が語られています(41〜44節)。この流れの中で理解していく必要があります。
 「キリストをどう理解するか」との論争の中で、『ダビデの子』と主張する律法学者に対して、『主は私の(ダビデ)の主に・・・』と、ダビデ自身が『聖霊によって』キリストを主と呼んでいます。それは、「神の子」すなわち神ご自身であられ、仕える僕であるということです。
 キリストは、あなたの主であられますか! キリストのみことばを聴くことを喜びとしておられますか! キリストは、一人ひとりの心をどのように見ておられるでしょう!

Ⅰ.動機を見られる主  38〜40節
 主イエスが、『律法学者たちには気をつけなさい』と言われたのは、彼らが『見えを飾るため』であり、虚栄の演出や自尊人を満足させる態度や、あげくは弱い立場の者を貪欲な態度で接したことでした。彼らの心は、こうしたことを好み、それに執着し、自分の利益のことしか考えていない、言わば自我に生きる醜い姿です。
 なぜ、私たちは、このように祈りの行為や愛の行為が、偽善となり、自己中心となってしまいやすいのでしょうか。人に見られることを好んで、自分がする行為となってしまうからです。つまり、愛の神のご支配を忘れて、委ねることを忘れてしまうからです。
 『愛は・・・自分の利益を求めず』(Ⅰコリント13章5節)とありますが、「これによって人が生きるのか、人が救われるのか、教会はこれを通して生きるのか、主が崇められるのか」を問い求めることです。そのためには、自ら自己犠牲となって十字架上で献げ尽くしてくださったイエス・キリストの愛のご支配に、またよみがえって今も生きておられる主イエスご自身のご支配に生きることです。その愛が動機となっているかを主は見られるのです。

Ⅱ.真実を見られる主  41〜44節
 婦人の庭と呼ばれた所に、人々が献金を投げ入れる箱がありました。主イエスが、献金者が献げるのを『見ておられた』とは、何と厳粛なことでしょうか。  『多くの金持ちが大金を投げ入れていた』という「事実」も見ておられました。『ひとりの貧しいやもめが』、当時の最小単位の銅貨レプタ二つを投げ入れたという「事実」も見ておられました。しかし主イエスが、『わたしは真実をあなたがたに告げます』と言われたように(ルカ21章3節)、主イエスは事実以上に、真実を尊んでおられました。と言って、主イエスのまなざしは、事実は軽視されたのではありません。やもめが、貧しかったこと、『乏しい中から、あるだけ全部、生活費の全部を投げ入れた』と、どの人よりもたくさん献げたという事実を見ておられました。
 愛してくださる主なる神を愛して(30節)、全てを委ねていたのです。そして、隣人を愛することに生きつつ(31節)、神の愛なしには生きることのできない乏しい者であることを知るがゆえに、神の愛に応答する精一杯の信仰でした。ここに、主イエスは真実を見ておられたのです。
 献げ物をするということは、この主のまなざしの中でなされることです。それは、他人の目を伺う、恐れるという所から解き放たれることです。信じるということ、信仰に生きるということは、主イエス・キリストのまなざしの中に生きることを体験することなのです。

                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)