キリストの体である教会は、いのちと感情を持った人格的な存在です。従って、喜んだり、楽しんだり、望みに溢れたり、反面失望したり、悲しんだり、痛みを感じることもあります。だからこそ、『励まされ』て前進していく必要があるのです。
『こうして教会は』と展開されている背景には、教会の苦悩があるとともに、さらに勝れる教会の勝利があるのです。
Ⅰ.遣わされる器によって
福音宣教が、エルサレムからサマリャまで進展してきた道筋には、ステパノの殉教の日から『使徒たち以外の者』が散らされていく中から進められました(8章1〜4節)。そして、エルサレム教会への迫害の立役者であったサウロの回心が大きな契機となり、以後サウロに焦点が移っていきます。しかし果たして、それだけなのでしょうか。そこには「教会の歩み」があったことに気づかされます。
この時の教会も困難の中に置かれていましたが、『主の御名を呼ぶ者たち』
(14節)が苦しむとき、主イエス・キリストご自身がその苦しみを受け取られました(4〜5節)。そうした中からサウロが回心に導かれて、『わたしの名を・・・運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないか』(15〜16節)と、迫害しながらサウロは主の愛を知らされています。このことのために、アナ二ャを『主イエスが・・・遣わされました』(17節)。主がアナ二ャを用いられたということは、教会とそのメンバ−を用いられたということです。
その後、エルサレム教会の人々に誤解されて恐れられていたサウロが受け入れられるために、エルサレム教会員のバルナバが遣わされ、仲介者・保証人として用いられました(27節)。一人の人間を引き受けることは大変なことです。
また、無名の遣わされた身辺警護者がいます(25節、30節)。
そして、遣わされた宣教者サウロです。聖霊に満たされた帰結として、ただちに宣教を始めました(20節)。ダマスコの教会の人々を『うろたえさせる』ほどに『ますます力を増して』です(22節)。そして、最も宣教しにくかったエルサレムにおいても『主の御名によって大胆に語った』のです(28節)。ただ、このように受け入れられ、宣教に専念できた背景には、互いの悔い改めがあったことでしょう(ガラテヤ1章19節、ヤコブ5章16節)。
『こうして教会は』と前進する中での中心は、サウロでも、アナ二ャでも、バルナバでもありません。生きておられる復活のキリストご自身です。主が中心にいて、その働きをなされました。主が働かれる、その働きに彼らは喜んで従ったのです。
Ⅱ.聖霊によって
福音宣教は、聖霊に満たされた器たち、聖霊の力によって進められました(1章8節)。また、『ユダヤ、ガリラヤ、サマリャ』という互に異なった文化的・地域的背景を持ちながら、そこに形成された諸教会の間に『平安を保ち、主をおそれかしこみ』とは、聖霊による一致というほかありません。そして、『聖霊に励まされて前進し続けたので』と、活動や結実の前に、聖霊が目に見えない聖徒の一人ひとりに働きかけ、語りかけ、導いていただき、慰め励ましていただくのが、本来の教会です。
聖霊は火に譬えられ、それは主の弟子を燃やし、キリストをもっと深く知って、このお方を伝えたいとの炎となって世界中に拡がっていくのです。その炎が小さくなったり、やがて燃え尽きて灰になってしまうことがあってはなれません。『御霊を消してはなりません』(?テサロニケ5章19節)とありますが、火を消すのは水であって、それは「罪」です。
聖霊によって教会の前進がなされますように!
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)