コリント人への手紙第一の第1章の学びを終えて、今日から第2章に入りますが、1章は「誇る者は主にあって誇れ」という言葉で終わっています。
人は詰まらないものを誇りとする者であり、また誇りが無ければ生きられない存在でもあります。最初の議論の結論は、ただ主だけを誇りとすると言うことでした。この議論の発端は、教会の中に生じた派閥争いでした。ある人はパウロを誇りとすると言い、ある人はアポロを、ある人はケパをと。そこでパウロは、教会として誇るべきものはキリストのみであることを語ったのです。
1.この世の知恵との決別
使徒の働き18章には「パウロはアテネを去ってコリントへ行った。1節」と記されています。パウロは知恵ある者に属し、力ある者に属し、それを生きる支えとし、誇りとしていたと思われます。救いを得た彼は、宣教にも知恵の言葉が有効であると考えていたことでしょう。しかし、アテネでの経験は、彼に大きな転換をもたらしました。すなわち「アテネを去った」と言うことは、これまでの知恵の言葉にたよる生き方と決別したと言うことです。
2.御霊の力によって
コリントにおけるパウロの働きは「神のあかしを宣べ伝えること」でした。
神のあかしとは何でしょうか。神が何をあかしされたと言うのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架による救いに他なりません。ひとりの人イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことが、どうして全人類の救いとなるのかと言うことは、人の知恵で簡単に説明の付くことではなく、神があかしして下されなければ理解できないことです。
かつてわたしたちは、キリストの十字架について耳にしました。しかし、俄かには信じられなかったのではないでしょうか。それを信じることができたのは、神がわたしたちの心に示してくださったからです。神は聖霊によってそのことをあかしして下さったのです。それは、救いの道は神だけが知って居られると言うことです。ですから、「私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れ」だったと語るのです。
3.十字架のみ
救いの道は神だけがご存知の計画、それが十字架のキリストであると解ったとき、パウロは、キリストの十字架以外のことは、何も知るまいと決心したのです。救いに役立つことはこれひとつであって、これさえ知っておれば他には何もいらないと言うことです。
十字架なしのパウロは無力であり、彼にとって律法学者としての力も、神についての知恵・知識も、十字架を知ることに比べれば、何かを知ったという内に入らない、と言うことだったのです。
4.人の知恵でなく神の力によって
人間の知恵に頼らないで宣教するのは、「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした」と語ります。
ギリシア人は知恵を追求すると言いますが、人は例外なく知恵を求め、知恵に頼ります。要するにそれは自分で納得したいということなのです。しかし、信仰は人間の知恵に支えられているのではなく、神の力に支えられているのだと主張します。
神の力とはその力強さのことではなく、救いに働く力のことであって、それは恵みを意味しています。わたしたちの救いは、神のめぐみに支えられているのであり、それは十字架です。聖霊の力によって与えられた救いであり、聖霊の御力によって進められる宣教、すなわち「十字架に付けられた方のほかは、何も知らない」というパウロの道を進み行きましょう。
(説教者:柏原教会協力牧師 岸本 望)