柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「あっ、生きてる!」  使徒の働き9章36-43節

 『ルダ』の北西17キロにある地中海沿いの港町『ヨッパ』での出来事です。そこに『タビタ』という『女の弟子』すなわちクリスチャンが病気で死にました。キリストの弟子たちは、ルダでのペテロを通しての奇蹟を伝え聞いていたのでしょう、彼に告別式をしてもらうためではなく、ある期待をもって彼を招きました(36〜38節)。

1.キリストの復活によって
 果たせるかな、ペテロは人々を外に出し『ひざまずいて祈った』のでした。その結果たるや、死人を生かす主イエス・キリストのみわざがなされました(40〜41節)。この様子は、かつて主イエスが会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせなさった時の経過とそっくりです(マルコ5章21〜43節)。しかし、二つの奇蹟には根本的な点で大きな違いがあります。主イエスはご自身の力で娘を生き返らせなさいましたが、一方のペテロは主イエスの前に跪いて祈り願い求めた結果でした。言わば、主イエス・キリストに対する信仰によって、主がなされたみわざです。栄光を現されたのは、ペテロでなく主イエスご自身なのです。
 私たちの罪を赦す権威は、絶対者であられる神だけが持っておられます。死を越えた永遠までも保証してくださるのは、永遠の存在であられる神以外におられるはずがありません。つまり、本当の神以外に私たちを救いうるお方はおられないからです。だからこそ、神は、神を離れてしまった私たち一人ひとりが、もう一度、ご自身の愛の懐に帰れる道を、いかにも神らしい実力をもって、つけてくださったのが十字架と復活の事実です。

2.キリストのいのちによって
 葬儀は、その人の人生を映し出すスクリ−ンです。会葬者の多少はほとんど関係ありません。その人の死がどれだけ惜しまれるか、その人の生前どれだけの人がその人を通して助けられ、励まされ、慰められたか、それが明らかにされるのが葬儀であると言えないでしょうか。このことを考えると、下手な死に方はできません。
 この点タビタは幸いな女性信徒でした。彼女は『多くの良いわざと施し』(36節)によって知られていました。彼女の死を悲しむやもめたちは、そのことの生き証人でした(39節)。
 自己中心的な生き方をした人が死んだら、こうはいきません。そして罪とは結局自己中心を特徴とし、救いは人を神中心に生きさせます。その意味では、キリストの福音は、罪に死んでいた人を真に生きる者とする神の力であり、キリストのいのちです。
 福音を単に知的に知る、歴史的に知るだけでなく、「私のためであった」と主体的に個人的に受け入れる時に、私たち一人ひとりの心と生活に親しく浸透するという、生きた霊的体験となるのです。

                  (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)