柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主の約束」 マタイ26章26-35節

今日から受難週です。イエス・キリストがロバの子の背中にのってエルサレムに入場し、その後十字架に付けられ、三日目に死の中からよみがえられるイースターの前の週です。

ちなみに英語ではレント(lent)受難節があります。それは40日間でヨーロッパでは断食したり節制することがあります。私たちもまた、この受難週にキリストがなぜ十字架に死ななければならなかったのか、私たちと何の関わりがあるのか考えてみたいと思います。


1,新しい契約

26節から、今私たちが教会で行っている聖餐式のことが出ています。最後の晩餐のとき、イエス様はパンを取り祝福し「これはわたしのからだです。取って食べなさい。」と弟子たちに言われました。ですから聖餐式のとき食べるパンはキリストの体を表しています。そして「この杯から飲みなさい」と弟子たちに言われました。それはキリストの十字架で流された血潮を表しています。
もともと過越の祭りは、イスラエルの民が奴隷の地であったエジプトから神様によって救われ、脱出したときのことを記念し覚えるためのものでした。過越の祭りの食事は、その脱出を記念するためイースト菌の入っていない「種なしパン」や苦菜など特別に規定されたものがありました。イスラエルの民はそれを食することによって神様が、苦しみと奴隷の地であったエジプトから救って下さったことを覚え、神様に救いの感謝を献げるものであったのです。
しかし、そのイスラエルはその後、従順ではありませんでした。神に逆らい忌み嫌うことを行い、神に呪われ裁かれても仕方のない状態でした。
それは私たちに対する愛のしるしでもあるのです。私たちは真の神を知らないままで生まれ育ち、自分勝手に生きていたところがあります。私たちもまた、人生の意味を見失いむなしくさまよって滅びの道を歩まなければならなかったかもしれません。
そのような私たちをも神のあわれみによって選び愛するものとして下さったのです。パンと杯による新しい過越の祭り、すなわち聖餐式は神の新しい契約です。私たちの罪・咎・全ての過ちをキリストの十字架によって赦して下さるという契約なのです。
私たちはもはや律法によって生きるものではなく、十字架による神の愛と赦しによって生きることができるのです。


2,主の約束

過越の祭りを終えて彼らはオリーブ山に出かけました。30節に賛美の歌とありますが、おそらく詩篇の113篇ハレルの詩篇を謳って山を登ったでしょう。特に136篇には出エジプトのことが歌われています。それは主が成し遂げて下さった贖いの歌、救いの歌です。
オリーブ山に向かって行くときにイエス様は弟子たちに、「つまずく」と言われました。それは旧約聖書ゼカリヤ13:7の預言の成就でした。ところが弟子のペテロは「全部のものがつまずいても、私は決してつまずきません」(33節)と言い、イエス様が「あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われたときも、「私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」とはっきり言ったのです。
それは彼の自尊心の表れでした。ペテロには自信過剰のところがありました。それがまた失敗の大きな原因となったのです。自信を持つことは良いことですが、それが過剰となると大切なものを見失ってしまいます。果たして自分の力でどこまでやり遂げることだろうかと思います。彼は確かに、キリストに従って行きました。なんと大祭司の庭にまで入っていったのです。ところがそこで、キリストの弟子だろうとその家の者に言われたときに、ペテロは主が言われたように三度知らないと言ってしまったのです。それが人間の限界です。彼もまた、他の弟子たちと同じように主を裏切り見捨てて逃げてしまったのです。
ですから、自信過剰自分自身に頼ってしまうことが失敗の原因となるのです。私たちの頼るべきは自分でもなければ、他人でもありません。それはイエス・キリストです。キリストは私たちを愛されます。十字架の上で、私たちの罪の呪い罪の責任を身に受けて死んで下さいました。それが私たちに対する愛の証しです。そしてもう一つ大切なことは、死の中からよみがえられたことです。
エス様は弟子たちに大切な約束をされました。「わたしは、よみがえってから、先に、ガリラヤへ行く」(32節)と言われたのです。弟子たちはすぐ信じたでしょうか。だれも信じられなかったのです。それはあまりにも驚くべきことであり、私たちの想像を遥かに超えているからです。
しかし、主は語られたとおり十字架にかけられ死なれてから三日目によみがえられました。そして弟子たちは、信じ喜び、信仰に立ち上がったのです。

私たちの信じるキリストは、死んで終わりではない。死の中からよみがえられ、死に勝利される方です。その方を信じるなら恐れるものはありません。私たちもまたあの弟子たちのように、復活の主にお会いし、信じ信仰によって勝利の人生を歩まさせていただきましょう。


                  (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)