柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主よ、来てください」 第1コリント16章13-24節

手紙の最後には挨拶を記します。しかし、単なる挨拶ではなく、ここには細やかな配慮があり、そしてまた勧めがなされています。
まずここに、さまざまな人が登場します。若い人テモテ、練達した人アポロ、無名の人ステパナポルトナト、そしてアカイコなど、さらに有名な人アクラプリスカです。

1.教会の交わり

聖書に無名の人が登場することは、素晴らしいことです。わたしたちの大半は無名の存在です。いや、文字通り言えば、決して無名ではなく有名ですが、人に知られているかいないかと問えば、多くの人に知られた存在ではありません。しかし、それは救いに関係のない話です。
多くの人に知られていなければ救われていない、と言うものではありません。何のとりえがなくても、ネームバリューが無くても、信仰さえあれば救われるのです。そして何よりも、主は覚えていて下さるのです。
パウロは、無名の者についても、服従しなさい 16、労をねぎらいなさい 18」と言います。信仰の世界は、この世の評価、すなわち知名度で評価するのではなく、信仰の姿勢で評価され、信仰の働きで評価されるのです。それは、「聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました 15、 足りないところを補ってくれた 17、 彼らは、私の心をも、あなた方の心をも安心させてくれました 18」と記されている通りです。
(1)「聖徒のために熱心に奉仕した 15」とは、教会に仕えたと言うことです。教会に仕えるとは抽象的ですが、主が喜ばれることをしたのであって、自己満足のための働きではなかったのです。
(2)「足りないところを補ってくれた 17」という働きは、中心的となる働きではなく、補足的・補助的働きを意味していると考えられます。
近年、企業における発明の対価ということが話題になりました。表面に現われる大きな働きの影には、それ以上に、隠れた大きな働きがあるのです。小さな発明が大きな収益となって実を結びます。ところがその小さな発明も、多くの人の協力があってこそ、と言うこともあるのです。
教会における働き、伝道の業の背後にも、常に足りないところを満たす働きがあることを忘れてはなりません。
(3)「彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました 18」とは、具体的に何を指しているのかは分かりませんが、決して見える形で評価できることではありません。しかし、パウロはそれを忘れては居ないのです。見える結果だけで評価するのではなく、数量で評価できないものを見落とさないのが、教会の姿であり、信仰の世界のあり方なのです。
ですから、18節の最後の言葉を、新改訳では「労をねぎらう」と訳していますが、口語訳では「重んじなければならない」と訳しています。これは<よく知る>という意味の言葉だといわれます。目立たない人をよく見て、そしてそのしていることの意味をよく考えるのです。
わたしたちは、この世的に名が知られていなくても、教会に仕え、足りないところを満たし、いつも人の心を乱していたと言うのではなく、人の心を安心させていた、と評価される信仰の歩みを全うしましょう。
前後しますが、このように評価される生活とは、13〜14節に記されているように生きることです。そこで信仰者の在り方ですが、


2.信仰者の在り方

(1)「目を覚ましていなさい 13」目を覚ましているということは、どのような場合でも大事なことです。いつも注意深く、起こりくることに立ち向かう準備をすることは、特に信仰者にとって大切なことです。その上、初代教会では、間もなく主がおいで下さると信じていましたので、常に目を覚ましてそれを待ち、その時にあわてないようにすることが繰り返し勧められていたのです。なぜならそれは信仰の完成のときだからです。ですからまず始めに、目を覚ましていなさいと勧められています。
主の来臨を待ち望むことは、初代教会も、現代の教会も変わりありません。そこで目を覚ましているためには、
(2)「堅く信仰に立ちなさい 13」という勧めが必要なのです。これは、すでに信仰に立っている者に向けて語られています。なぜなら、信仰にはゆるみが来て、それを失う危険があるからです。何事も無いときにも常に自分は信仰に立つ者であることを考えていなければならない、と言うことです。
(3)「男らしく、強くありなさい 13」と勧められています。これは、特に男性のことを言っているのではありません。この言葉の趣旨は、信仰的に強くあって欲しいと言うことです。それも、“強くされなさい”と言うのがこの言葉の真意です。自分で、自分を強くしようと言うのではなく、どこまでも受身であって、強くしていただくのです。
 信仰の強さは、その人自身が強くなるのではありません。わたしたちはいつまでも弱いのです。何処までも弱いのです。情けないくらい弱いのです。しかし、わたしたちを強くして下さる方を信じているのです。すべてを主に信頼し、お任せしているのです。それが信仰と言うものです。ですから、信仰に立って、主と共にあるときだけ強い者にしていただけるのです。信仰の修養によって強い人間になるのではなく、信仰があるから強いのです。
(4)「いっさいのことを、愛をもって行いなさい 14」と言っています。主がおいでになるからと言って、何の用意をするのでしょうか。特に変わったことがあるはずがありません。すべてのことを、愛を持って行
うだけです。それは、愛に取り囲まれて、愛に生かされてと言うことでもあるでしょう。あるいは、すべてのことを愛の中に起こるようにすると言ってもいいでしょう。それは、始めから終わりまで愛に基づくと言
うことです。愛を動機とし、愛を動力とすることです。


3.聖霊の交わり

最後に「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ 22」と言う、大変過激な言葉が記されています。
実は、この言葉は、聖餐式の始まる前に述べられたものであるといわれています。聖餐のときに朗読される聖書の箇所に「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります ?コリント11:27」と記されています。
「ふさわしくない」と言うことは、清くないと言うことを意味しています。さらに、この箇所での表現を用いれば、主を愛さない、と言うことになります。主を愛さない者はこの席から去れ、と言うことだと言われています。すなわちある人は、呪われよと言うことは、去れと言うことでもあり、悔い改めよと言うことでもある、と教えています。
まことに厳しい言葉でありますが、なぜこのような言葉が挨拶の言葉となるのでしょうか。それは聖餐のことばだからです。信仰者の真の交わりは聖霊によるものであり、礼拝を共にすることであり、共に聖餐にあずかることから始まるのです。
「主を愛さない者」とは、単に愛さないと言うことではなく、主に対して信頼を表さない者と言うことです。ですから、反対に、主を愛する者、主に対して信仰を言い表す者の交わりは、清い口づけをもって、と言われているように、それは聖餐にあずかる者でなければ理解出来ない信頼を表しています。
続いて「主よ、来て下さい。」と記されていますが、これは“来て下さった”とも訳せるそうです。
聖餐において、何よりも大切なことは、主がここに居てくださると言うことです。主の居られない聖餐は意味を持ちません。
聖餐は、主との交わりですから、「主よ、来てください」と言うのです。聖餐の席に来て下さい、来て下さった、そして再臨の主として来て下さいと言う、二重の意味を込めています。
信仰によって、主の臨在を信じる聖餐は、同時に「主の来られるときまで主の死を告げ知らせる11:26」と言われているように、主の死を告げ知らせるだけでなく、主の来臨を告白しているのです。
最後に「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように 23」と祈ります。「恵み」は、神の一方的な好意であって、いつでも自分の都合のよいようにして下さることだ、と考えてはなりません。
キリストが、わたしたちの罪のために十字架にかかり、甦ってくださったと言う事実によって、無条件にわたしたちの罪を赦して下さったことこそがめぐみなのです。ですから、めぐみを思い、めぐみを語るたびに、十字架と復活のことを思わなければならないのです。
めぐみがあなたがたと共にあるように、と言うことは、十字架の赦しと復活の喜びのうちに、いつも生きることが出来るようにと言うことです。わたしたちも、主の十字架の赦しと復活の喜びのうちに、“主よ、来て下さい”と祈りつつ歩みましょう。


                       (宣教者:六甲みどり教会牧師  岸本 望 師)