柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「選びの器」 使徒行伝9章1-19節

 神の選びは、何人にも説明できない、合理的な説明を越えた神のなさる不思議な出来事であり、出会いです。
 サウロ(パウロ)は、すでにステパノの説教を聞いていたとき、『この道の者(キリスト者)』(2節)を危険分子と考え、全力を挙げてたたきつぶそうとし、そのことに情熱を注ぎ込みました。しかし彼もまた、主イエスに備えられていた『選びの器』でした(15節)。『彼は祈っています』とありますが(11節)、これまでも祈らなかったわけではなく、ここでの祈りは、特別な重みがありました。

Ⅰ.復活のキリストに出会ったゆえに
 この時サウロは、イエスという人物を過去の存在として認めていたとしても、現在の生ける神としては信じていませんでした。当然、そのイエスを信奉する者たちの存在も許すことができず、躍起になって教会とキリスト者たちに弾圧を図ったのです。そんな彼に、『突然』復活のキリストが語りかけられました。サウロは、「わたしを迫害する、と言われるあなたはどなたですか」と問いかける中から、「私がこれまで迫害してきたのは、教会やキリスト者たちというよりも、復活されたキリストに対してであった。かつてイエスをムチ打った者と同様に、私もイエスをムチ打ったのだ。私こそ神に対して大反逆罪を犯した罪人のかしらだ」と知らされ、打ちのめされて祈っているのです。
 罪とは、罪のない神であるキリストを十字架につけて平然としている罪、キリストが復活されたにもかかわらず、その驚くべき復活のおとずれを信じようとしない罪です。そんな罪人にも、キリストご自身から謙って救いへと招いていてくださるのです。

Ⅱ.砕かれたゆえに
 今や、栄光のキリストにお会いして、目は開いているものの見えなくなったサウロは、人々に手を引かれ、ダマスコに連れて行かれました。そして、思いもしなかった三日間を祈りの中に過ごしたのです(8〜9節)。また、たった一日だけ神の歴史の舞台に登場する人物『アナ二ャ』が重大な役を演じました。使徒パウロが生み出される助産婦の役割を果たすのです(10節以下)。
 これは、これまでのサウロの生き方においては考えられないような一種の屈辱的な姿でした。自信にあふれ、人々の先に立って進んでいたそれまでは、人の助けを必要としない誇り高い人物であったからです。しかし、ここでサウロは闇の中で祈りつつ、それまでの自分が砕かれていくのを経験したことでしょう。祝福されることよりも、用いられることよりも、恵みによって主の前に降伏することを体験的に知ることなしには、救いは自らのものとはなりません。

Ⅲ.神に生きる道を示されたゆえに
 サウロが回心したなどとはおおよそ信じがたい中にあって、アナ二ャは主のことばを信じ、人を全く造り変えられる救いの恵みを信じ、そしてサウロを信じ、彼の祈りを信じました(10〜14節)。そして、主に従い、命じられたとおりにサウロを訪ねて、執り成し、導いています(15〜17節)。
 また、サウロからすれば、『兄弟サウロよ』という呼びかけに、アナ二ャの背後におられるお方を信ぜずにはおれなかったでしょう。「選びの器として用いられる。そこには、主の名のために苦しむことも賜っている」との導きに、信仰の目が開かれ、救いに与り、洗礼を受け、主の霊の満たしの中を歩み出したのです。そこに、選びの器として召されていることへの確信からくる祈りがありました。
 「十字架を貪れ」(バックストン)、「十字架なくして冠なし」(向後昇太郎)こそ、選ばれた器が祝福をもたらす秘訣です。

                               (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)