柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「日ごとに新しく」 哀歌3章21-26節

 人は朝、昼の制限の中に生かされ、その生涯は日ごとの継続ですから、一日ごとに新しい意味の課題に直面しています。それに対して、生きておられる神の恵みは、『朝ごとに新しい』、日ごとに新しいのです。本質は一緒の恵みなのですが、日々に新鮮であり、その結果日々も新鮮なものになるのです。

(1)哀から愛へ  21〜23節
 イスラエルユダ王国は、紀元前6世紀末、国家の滅亡という歴史的な破局を経験しました。そのときのエルサレムの住民が受けた苦しみと痛みとをテ−マにしたのが「哀歌」で、人間の深い悲しみを歌ったものです。『ああ』(1、2、4章の各冒頭句)とは、何ゆえにこの悲惨を受けなければならないのかとの、叫びと訴え、憤りと呻きの言葉です。『・・・わたしはこの事を心に思い起こす』(20〜21節)と嘆いています。このような叫びは、その度合いは違っても、今日、至るところで発せられているではありませんか。
 ところで、哀歌は、決して人生の敗北の歌ではありません。『それゆえ、わたしは望みをいだく』(21節)と告白しています。しかし、その根拠は人のうちに
はありません。『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い』(22〜23節、新改訳)のです。神の恵み、あわれみ、真実とは、神がどういうお方であるかを明らかにしています。実は、この三つの神のご性質が一つになって実現したのが、イエス・キリストの十字架の出来事で、それは十字架に示された神の愛です(Ⅰヨハネ4章10節)。
 愛の神は、時に私たちを、苦しみ、悲しみ、痛み、憂いといったピンチに追い込んで、主イエスとの出会いの道を開いてくださるお方です。まさに、哀から愛へと!

(2)絶望から希望へ  24〜26節
 本箇所に至るまでの記事に、絶望的な雰囲気に圧倒されます(17〜20節)。それが希望に向けられるのは、神が神であられるゆえに神を待ち望むという信頼であり(24節)、神の恵みの賜物に対する期待ゆえです(25節)。
 今日、私たちの希望の根拠は、どこにあるのでしょうか。神がその独り子をこの世にお遣わしになられた事実こそ、何にも優る希望です。また、主イエスの十字架によって、罪が赦されるという事実に、何にも優る希望があります。
絶望が希望に逆転する道は、生ける神への真実な悔い改めと信頼あるのみです。さらにまた、死に勝利されたキリストの復活によって、死が滅ぼされ、キリストを信じる全ての人が復活の命に生かされること、ここにこそ私たちの永遠不変の希望があります。言わば希望の根拠は過去にある、と言えましょう。
 哀歌の記者は『待ち望む者』と語るだけでなく、『尋ね求める者』と語っています。主イエス・キリストが与えてくださる希望は、私たちが日々の生活の中で、具体的に尋ね求めていくのです。この営みこそ、毎週の礼拝であり、日ごとの静思の時です。そこにこそ、日ごとに新しい恵みが備えられ、また拓かれていくのです。

(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)