柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主の来臨のとき」エレミヤ33章14-16節

今日は第二待降節です。待降節は神を待ち望むときという意味ですが、旧約聖書でも神を待ち望んでいた人がいました。その一人は預言者エレミヤです。彼もまた、救い主の出現を待ち望んでいた人です。彼は今から約2600年前にユダヤの国で活躍していた預言者です。彼はユダヤの人たちに、国が滅びることを警告していました。しかし、指導者たちは神のことばを聞こうとしませんでした。そしてついに超大国であったバビロンに攻め滅ぼされ囚われの身となって連れて行かれたのです。
しかし、エレミヤは神様は必ず神の都エルサレムを復興させてくださる。その回復の恵みを望み見ていました。


1,主の来臨のとき

「その日が来る」(14節)とエレミヤは預言しました。それはバビロン解放の日であり、ユダヤ人にとっては救いの日を示しています。しかし、もっと広い目で見るとき、すべての人の救いの日となります。
神は私たちを救うためにそのひとり子をお遣わしになられました。イエス・キリストです。私たちを世の滅びから救うために来られた方です。私たちにとって「その日」とはまさにキリストがこの世にお生まれになった日を表します。世界の歴史はキリストの誕生によってB.C.(キリスト以前)とA.D.(主の年)に分けられました。私たちの人生も大きく変わります。それはキリストを信じる以前と、キリストを信じた後とは大きく変わります。
その日とはまた、主のあわれみのときです。信仰の祖先アブラハムに約束された、神の栄光―救いが現されるときです。「いつくしみのことばを成就する」といわれましたが、救い主キリストは、ことば(ヨハネ1:1)であり、その誕生の様を見るときに神のあわれみが現されたことを覚えます。キリストは天の栄光を捨てられ人となり、貧しい家畜小屋で人の助けを得なければいきていけない嬰児となって下さったのです。(ルカ2:12)
キリストは今、貧しくまた汚れた私たちの心の中にも宿って下さり栄光を現される方です。


2,神の正義を実現される

「正義の若枝」(15節)とはイエス・キリストのことです。公儀とは神の契約のことでありわかりやすく言うと神の約束です。正義とは単なる人間的なこの世の正しさではなく神の正義、つまりは絶対的に正しい神の御心を行うことです。
それはまさに、キリストの生涯によって成就されました。家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれ、ナザレの貧しい大工の子として生活し、公生涯の終わりには十字架にかけられて死なれたのです。しかし、神はキリストを死の中からよみがえらされ私たちに救いの約束を成就されたのです。
神の義とは、私たちを十字架によってキリストの尊いいのちを代価として全ての負債、罪・過ち・咎を贖って下さり、死からよみがえられた復活のいのちによって私たちを生きる者にして下さったということです。
ですから新しいいのちに生かされている私たちは、もはやこの世のもので生きるのではなく、神のいのち、神の御言葉によって生きるものであると言うことです。神の御言葉によって私たちは励ましと慰め力を与えていただくことができます。そしてそこには希望があるのです。
エレミヤは補囚からの解放のときを待ち望みました。そして、70年を経て解放され、エルサレムはもう一度神殿が再興され神の栄光を拝するものとなりました。
私たちにもまた、回復のときが与えられます。十字架の赦しと復活のいのちをいただいて、聖霊によって私たちも新しくされるのです。


                (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)