柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストを求める」エレミヤ29章12-14節

アドベント待降節のロウソクも三本光が灯りました。クリスマスが日一日と近づくことを覚えます。私たちにとって、キリストこそが救いの光、希望の光であることを覚えます。今日は「キリストを求める」と題してお話しをいたします。
前回もエレミヤ書から学びました。今から2600年ほど昔に活躍していた預言者エレミヤが、救い主が来られることを預言しました。それはまた単に過去のことではなく、今の私たちにも語られている大切なことばです。
約2000年前に人となって私たちを救うために来られたキリストは、やがて再臨の主となってこの地上に来られ、すべての者を裁くために来られることを聖書は語っています。しかし、信じるなら私たちは救われ、さばきを免れることができますし、それ以上にすばらしいものを神様は私たちに与えて下さいます。なぜなら11節に「平安と将来、希望」が与えられると記されています。
エレミヤのこのことばを聞き、信じた人はそれらのものを得ることができました。私たちも同じです。


1,キリストを求める

エレミヤの時代、イスラエルは偶像を拝み、神に罪を犯しました。それ故に、国は滅び彼らは異教の地バビロンへと連れ去られたのです。しかし、その所で神様は彼らに一つのことを求められました。それは12節に出てくる「呼び求め、祈る」と言うことです。それは、礼拝の一つの姿を現していると言えます。当時のバビロンにはユダヤ人のための神殿はありませんでした。おそらく彼らに相応しい礼拝の場所はなかっただろうと思われます。あるいは、川の畔を歩きながら、神に祈り、神を切に求めていたかもしれません。
国を追われ、異教の地でなすすべもないユダヤ人に神は、「私に呼び求めよ、私に祈れ」と言われたのです。もちろんエレミヤもそのことを実践したでしょう。心を尽くして、神を心の底から求めたことと思います。
そのことを考えるときに、私たちは幸いであると思います。私たちには、信仰の自由があり、またこのようにして礼拝をする場所が与えられ、しかも共に礼拝をささげることができるとは何という恵みであろうかと思います。
ただし私たちは、このところで安住することなく、あのエレミヤたちが求めたように、私たちもまた切に、キリストを求め、祈り、ますます私たちの内に平安と将来と希望を豊かに与えていただきたいと思います。


2,キリストを見いだす

神様はエレミヤを通して、「熱心に私を求めるなら見いだすであろう」と語られました。今私たちに必要なことは「真摯さ」ではないかと思います。「もう、こういう状況になったからもう無理だ、今更あがいてもだめだ」と落ち込むことは早計です。たとえそうであってもあきらめない。バビロンの異教の地であっても神を第一として「真摯に」生きた人たちもいたのです。ダニエル書の3章に出てくる、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三青年も真摯に神に仕える人たちでした。彼らは信仰の故に迫害され、燃える炉の中に投げ込まれましたが、やけど一つ負うことなく焦げた臭いもしませんでした。神様が共におられ彼らを守られ救われたのです。そして彼らは異教の地にあっても栄えたのです。
私たちもまた、神を見いだすことができます。「求めなさい、そうすれば与えられます」とマタイ7:7にあるとおりです。私たちもまた、キリストを見いだし、キリストによって救われ、豊かな恵みの中に生きることができるのです。


3,繁栄の回復

神様はエレミヤを通して、繁栄の回復を約束されました。それは補囚からの70年後に怒りました。クロス王がユダヤ人を解放し、祖国イスラエルに還したのです。そして彼らはエズラ、ネヘミヤによって神殿を再建しエルサレムを復興することができたのです。
私たちにとってはさらなる伝道の前進、福音の発展を意味します。多くの人が福音を聞き、神のもとに立ち返ってくる。その約束が成就するのです。今年、大阪でのフランクリン・グラハム・フェスティバルにも多くの方が集われました。そして、信仰の決心をされた方も多数起こされました。イエス・キリストを信じて新しい生活を始められた方もいます。私たちは、神様が私たちの魂をいやし、新しくして下さり、霊において力を与えられ、人にも愛をもって接することができるようにして下さいます。キリストが私たちの心のうちに生きて働き、愛のみわざを成し遂げて下さるのです。
私たちもまた、信仰復興の希望を持って生きようではありませんか。



              (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)