柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「満ちあふれる奉仕」2コリント9章6-12節

今日から教会の暦ではアドベント待降節に入ります。それは私たちのために、キリストが生まれてくださる、この世に来てくださることを喜びを待ち望む時です。


1,豊かに蒔くものは豊かに刈り取る

先週は命の刈り取りということでお話ししました。自然界にも収穫のときがあるように人生にも収穫のときが必ずあるのです。最終的に何を刈り取るのかが重要なことです。たとえ死んでも生きる、「永遠のいのち」ほど大切なものはありません。イエス・キリストはまさに私たちに永遠の命を与えるためにこの世に来られた救い主です。この方によって私たちは永遠の命を得ることができます。
先週は火曜日が勤労感謝の日で祝日でした。アメリカでは木曜日が感謝祭の日になっています。ことのはじまりは、イギリスから新天地を求めてメイフラワー号に乗ってきた人たちはアメリカの過酷な自然の猛威の中で倒れていきました。しかし先住民の助けによって種をわけてもらい、次の年には多くの収穫を得て共に感謝をささげたことが由来となっているとのことです。
多く種を蒔くものは多くの収穫を得ることができます。教会での奉仕の原則もこれに当てはまると思います。神様のために多く奉仕する者は、神様ご自身から多くのものを与えていただくことができます。それは、物質的にも霊的にも豊かに与えられるのです。
ある田舎の農家の方がクリスチャンになりました。田植えの季節にはたくさんの水が必要となります。水争いがよくあったそうです。あるとき、自分の田んぼに近くの用水路から水を入れていたのがせき止められ、隣の人の田んぼに水が流れていました。隣の人の仕業であることは明白でした。でも彼は神の御言葉―聖書を通し、「与えることは受けることより幸いである」「神は喜んで与える人を愛してくださる」と励ましを受けてそれを実践しました。なんと彼は早く起き、自分の田んぼに水を入れるだけでなく、隣の人の田んぼにも水を入れたのです。驚いたのは隣の人です。どうしてそんなにできるのか、なぜ苦労して喜んでいるのか不思議でした。それでついに、「教会に行きたい」と思うようになり、ついていったのです。そしてその人も救いにあずかることができたそうです。
9章8節には、神様が豊かに与えて下さり、神様が私たちを恵みをあふれるばかりに与えることのできる者にしてくださる方であるとあります。私たちも信じるなら神様が豊かに恵みを刈り取らせて下さることを体験できます。


2,感謝に満ちあふれる奉仕

9節には義という言葉が出てきます。ここでは貧しい人に施しをすると言う義援金の意味あいがあります。当時、パレスチナで飢饉が起こりました。おそらく多くの餓死者が出たことでしょう。エルサレムも例外ではありませんでした。多くの人たちが飢餓に苦しんでいたのです。もちろんクリスチャンも同じでした。エルサレムにいるクリスチャンを助けようとパウロは援助を求めたのです。それに答えたのがあの貧しいガラテヤのクリスチャンたちでした。そのことをパウロはコリントのクリスチャンたちに伝えたのがこの手紙だったのです。コリントのクリスチャンたちも喜んで義援金をささげるようになりました。
しかし、聖書を読むときその「義」は施しだけにはとどまりません。聖書が言うところの義は、施しだけではなく、神の義すなわち十字架によって私たちはすべての罪が赦され神の子とせられ、永遠の命が豊かに与えられることを意味しています。
12節を見るならば、満たすだけでなく、満ちあふれるようになると約束されています。イエス様のパンの奇跡も、5000人以上を養っただけでなく12のカゴ一杯になったとあります。勝ち得て余りある勝利を私たちに与えて下さるのです。
あの鉄鋼王カーネギーも、愛娘を失う辛い経験をしました。しかし、そのことを通し天に宝を積むことの意味がわかり、カーネギーホールを建てたり、全米にそしてヨーロッパに私財を投じて、図書館を建てることができたのです。彼もまた真に豊かな人にと変えられたのです。

神は恵みをあふれるばかりに与えることのできる方であり、また私たちはこの方に仕え奉仕をなすことにより、ますます満ちあふれるようになれるのです。  


           (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)