柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「命の刈り取り」ガラテヤ6章1-9節

今年もようやく紅葉の美しい季節となりました。紅葉するためには「気温差」「夏の日照時間と十分な雨」が必要だそうです。ある意味私たちの人生にも試練があることは自分自身を磨くことにもなると思います。
 それ以上に幸いなことには、私たちはキリストの愛によって互いに支え合うことが可能になるということです。


1,愛によって重荷を負う

ガラテヤ書はローマ書と並んで「信仰による義」が語られています。私たちが救われたのは行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われたことが明確にされています。その当時教会にユダヤ主義が入って来て、割礼の問題すなわち行いによって救われることが強調される問題がありました。それを正すためにもパウロはこの手紙を書いたのです。
人の間違いを注意することは難しいことだと思います。特に現代の社会では人間関係が悪くなることを避けて、人に注意をすることが難しいように思われます。しかし、聖書には「あやまちに陥ったなら、正してあげなさい」(1節)と言っています。見過ごしにしてはいけないのです。正さなければ、その人はますます悪い方向に行ってしまうのです。
ただし、そこには気を付けるべきことがあります。「柔和な心で」とあります。決して間違っていても、怒りをもって指摘してはいけないのです。「御霊の人」とありますように、私たちには助け主―御聖霊の導きと働きなくしては人を正すことはできないのです。聖霊は私たちを教えて下さいます。人に何を話すべきなのか忠告すべきか、どのように接すべきかも導いて下さるのです。私たちに取っては、まさにカウンセラーであり、コーチでもあるのです。 そして、人を正すときには私たちを教えられます。それは私たちもかつては罪人であり、誤った道を歩いていた滅びに向かって行ったものであることを教えて下さるのです。4節にあるように、自分の過去を振り返れば、誇れるものではなかったことがわかります。ですから、御霊に導かれるなら、私たちは謙遜にまた柔和に人を正すことができるのです。そして、そのことが「重荷を互いに負い合う」(2節)ことになるのです。この重荷は自分では背負いきれない、心の罪や呵責といったものも含まれます。自分自身で負いきれないものを共に担い合う、そして何よりも十字架のキリストが共に負ってくださることを体験するのです。そこには祈りが必要であり、またキリストを礼拝する信仰も必要になってくるのです。そして、それがいわば、クリスチャン特有の霊的な交わり、信仰の交わりとなるのです。それ故に私たちは「キリストの律法」互いに愛することがどんなことかがわかってくるのです。それは聖霊の働きによって解ることができます。


2,霊の刈り取り、命の刈り取り

7節から刈り取りのことが語られています。必ず収穫のとき、刈り取りのときが来ることを聖書は私たちに語っています。「神は侮られる方ではない」とパウロは言いました。おそらくその言葉は彼の経験・信仰から来ているだろうと思います。彼はかつて迫害者でした。ある意味、愛のかけらもないような人でした。しかし、キリストの愛により彼は救われ変えられました。
私たちもそのことが必要です。「肉に蒔くものは、滅びを刈り取る」とパウロは言います。自分の欲を満たそうとするものは、行き着く先が永遠の滅びであると警告しています。おそらく今の時代、多くの人が滅びに向かっているのではないでしょうか。自分を満たし、自分が多くのものを得たいと願い、欲望の趣くままをやって何が悪いのかとうそぶき、永遠の滅びに向かっているのです。その最後に行き着くところは硫黄と火の燃えさかる池、阿鼻叫喚の地獄、永遠の滅びであることを私たちは知らなければなりません。
しかし、逆に御霊のために蒔くものは、御霊から永遠の命を刈り取るとパウロは言いました。そして彼も御霊により永遠のいのちを得て人生の勝利者となったのです。
彼はどんな迫害にも苦難にも耐えることができました。すなわち永遠の命を得ることができたからです。私たちはどうでしょうか。御霊により、御霊から永遠の命を豊かに得られるように、喜んで神のために働くものとさせていただきたいと思います。
 

             (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)