柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「朽ちない食物で生きる」ヨハネ6章27-35節

エス様はガリラヤ湖の近くで、5000人以上の人たちの空腹を満たされる奇跡を行われました。それは、ただ物質的な必要を満たすだけの意味ではなく、私たちの心・魂を満たし、私たちの生きる原動力となるものです。


1,最大の奉仕

エス様は弟子たちに「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と勧められました。この言葉の背景には、あの5000人以上の人たちを養われた給食のことがあります。彼らには十分な食べ物はありませんでした。ただ子どもが持ってきた大麦のパン五つと小さな魚二匹しかなかったのです。ところが、それをイエス様が手に取り感謝を献げて祈ったところ、全ての人が満腹になるまで食べしかも、十二のカゴが一杯になるほどに与えられたのです。弟子たちはその奇跡を見、しかも自分たちがそれを配って体験したのです。
私たちは可能なら、「永遠のいのちに至る食物」のために働くことができれば幸いであると思います。おそらく直接的には、みことばの奉仕、イエス・キリストの救いを伝える働きのことでしょう。その奉仕にあたる者は幸いです。あの弟子たちと同じように御言葉によって魂が満たされる姿を見ることができるからです。
そして、その直接的な業にあずかることができなくても、間接的にも奉仕をすることができるのです。きっと十二弟子たちをサポートする人たちもあったと思います。今日では、教会奉仕がその役割を担っています。その点では「食物」を与える大切な働きの一つです。


2,神のわざ

弟子たちは「朽ちない食べ物」のために働きなさいとイエス様に勧められたとき、神のわざを行うためには何をすべきかと尋ねました。
エス様は信じることが神のわざである、と答えられました。人間は、とかく行うことを考えます。よい行いをする。神から人から認められることをしたい、と考えます。しかし、イエス様は、信じることが神のわざであると言われました。しかもその信じるものは、「神が遣わした者」すなわちイエス・キリストご自身です。キリストを信じることが神のわざです。「誰でも聖霊によらなければイエスを主と告白することはできない」とありますが、まさにそれは神のわざです。私たちは簡単にイエス様を自分の救い主とは告白しがたいのです。
あの宗教改革を行った、ルターやカルビンも信仰の働きを重んじました。彼らにとっても神が遣わされた方を信じる信仰が彼らの大きな力であったのです。私たちにもそうです。イエス・キリストを神と信じる、キリストが私の内に生きておられる、そのことを信じるときに神の大きなみわざを神様の栄光を私たちは見ることができるようになるのです。


3,天からのパン

するとまた、弟子たちはイエス様を信じるためにしるしを求めました。まさにユダヤ人はしるしを求める人たちです。しかし、14節を見るならすでに彼らは、5000人以上の人たちが養われるしるしを見たのです。彼らの心の頑なさを見ますが、私たちも同じようなところがあるのではないでしょうか。一つの問題が解決して、また問題が起こるとそれに対して神様の業のしるしを求めてはいないでしょうか。
エス様は一つのしるしを話されました。それは、天から降ってきたパン、マナのことです。それは、エジプトを脱出したイスラエルの人たちに神様が与えられた天からの食物でした。彼らはマナによって養われ、生かされたのです。
私たちにとってのマナは、神のことばです。そして、これはまたイエス様ご自身を指すものです。35節でイエス様はご自分が「いのちのパン」であることを証しされました。私たちは毎日曜日、いのちのパンであるイエス様を心のうちにいただいているのです。そして、月一度私たちの教会で持たれる聖餐式も実は、キリストのいのちをいただいているその確かなしるしなのです。目に見える形をもって、キリストの体、その血を私たちはあずからせていただいているのです。そしてそれは贖いのしるしです。キリストの十字架によって、私たちのつぶやきや反抗、不従順も全ての罪が赦されて、神の民とせられやがて天の御国に入るものとされている。なんと感謝なことでしょうか。私たちには今も、永遠のいのちに至る食物が与えられているのです。 


               (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)