柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛の完成」  マルコによる福音書12章28-34節

 建前でなく、本気になって自分を聖書の光に照らしていこうとする時、どうしても本箇所の二つの命令と対決しなくてはならないことに気づかされます。いな、ここにたどり着かなければならないということを余儀なくされます。
 主なる神を愛すること、自分を愛すること、隣人を愛することは不可分離の関係です。主イエスは、二つの命令は、二つで一組であって、同列のものとして扱っておられます。

(1)愛の優越性
 律法学者の質問の動機は、前回に引き続き、『イエスをためそうとして』と不純なものでした(マタイ22章35節)。言わば、神を愛するという答えを引き出した上で、それなら何をもってそうすべきかを問うという思惑があったのでしょう。こうしたことを通しても、主イエスは、大切な、しかも本質的なことを語り伝えられたのです。
 心も、理性も、意志も、言葉も、その全機能・全存在・全人格をあげて、主なる神を愛せよと命じられています(申命記6章4〜5節参照)。『つくし』とは、中途半端ではなく全部をもって、言わば「本気になって」ということです。そうしなければならない理由は、『ただひとり』の唯一の神は、分けることができない、統一あるお方だからです。そして。『わたしたちの神』となってくださるお方ですが、一人ひとりに丸ごとの主となってくださるお方だからです。従って、私たちの方でも、全人格的にこのお方の前に立ち歩むのです。しかも、唯一のお方ですので、私たちへの愛を独占されるお方であり、また私たちの愛も分割されないで独占することを求められるのです。
 そして、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』と命じられました(レビ19章18節参照)。言われなくとも、誰よりも自分を愛する私たちです。逆に、自分を愛せないでいることもありますが。自ら自分が自分を愛するように、いやそれ以上に自ら神に愛されているのですから、同様に神に愛されている隣人を愛するのです。神に働いていただけるように神の方法に身を任せると、神は聖霊を通して心に愛を注ぎ、隣人への愛と祝福をもたらす者とされるのです。

(2)愛の具体性
 私たちの交わりは、愛の交わりです。まず、神が私たちを愛されたのです。その愛の極致が、本箇所から三日後に成し遂げられたイエス・キリストの十字架の贖いでした(Ⅰヨハネ4章10節)。
 これまで主の聖徒が真摯に問いかけてきたことは、「果たして、主イエスのこの戒めを、あなたはできるか」でした。「できない。そこにこそ人間の悲惨がある」ということです。本来、真実に神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者として造られたにもかかわらず、そうできないところに、どうしても自らの罪を見出さずにはおられないのです。そこに、救い主イエス・キリストの十字架の贖いに立たざるを得ないことを見出すのです。
 最大の課題は、このような純粋な動機における愛を注ぐことができるかどうか、ということを嘆くことではなく、主なる神が私を通してそのような愛を表すことができるかどうかです。どこまでも、神の愛を注いで働かれる聖霊の働きに王座を譲ることです。キリストの十字架には、とてつもない愛の力が秘められています。そこに秘められた愛を受け取り続けると、過去の傷を忘れ、何事もなかったかのように愛の関係が保ち続けられるのです。
 大事なことは、神の国の近くまで来ていたが、未だそこに入ってはいなかった律法学者のようにではなく、主イエスの十字架の愛を受け入れて、その愛に生かされ、愛に生きる者となることです。

                      (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)