柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「逆こそ真」 マルコによる福音書10章32〜45節

 『イエスが先頭に立って』、十字架に向かって積極的に進んで行かれる姿に、弟子たちはいつもとは違う主の決意に満ちた様子を見て取り、『驚き怪しみ、従う者たちは恐れた』のでした。そして、召しにあずかった初めの愛を忘れて、いかに主に従い仕えるかというよりも、栄誉と報いを求めています(35〜37節)。
そのように霊的に鈍くなっている弟子たちの現実を見られた主イエスは、十字架の苦しみを分け合うことが特権であり、それが真の道であることを明らかにされ(38〜40節)、何よりも『仕えるため』にと繰り返し語られたのです(43〜45節)。神の国の価値観とこの世の価値観とは逆なのです。

 
Ⅰ.十字架の愛に触れ続けていること

 夫婦・親子・友人といった人間関係において、健全な心の触れ合いによって感性が豊かになると言われます。霊の世界も同様です。『イエスにさわっていただくために』など、福音書の中に多くの触れる場面があります。主イエスは、まさに私たちに触れてくださるお方です。
 その主イエスが来臨された最大の目的は、『多くの人(すべての人)のあがない(身代金)として、自分の命を与えるためである』とあります。主イエスは、私たち一人ひとりが自由にならない救いを、私たち一人ひとりのものとして取り戻すために十字架の身代わりの死という代価を払われたのでした。
 私たちが僕として仕えることができるのは、私たちが決断して従ったからではなく、一人ひとりの罪や死の恐れ、克服したはずのエゴ・わがまま・傲慢・人を裁く心・貪欲・ねたみ等々に対して、愛の主イエスが十字架で救い癒しきよめてくださり、復活のいのちに触れ続けていてくださる以外に根拠はないのです。自力に絶望して、ただ主を信じ仰ぐのみです。


Ⅱ.キリストの謙遜に倣い続けること

 理屈が頭をもたげてくる時に、『仕えられるためではなく、仕えるため』に来臨された主イエスのように、神と人に仕えるには、キリストの謙遜の心に倣い続けることです。それこそが、『偉く(メガス=大きく)』なることなのです。縮こまっていてはいけません。大きい存在になることが大切です。大きな器を支配するものは、神から託されたものを管理しつつ、『すべての人の僕』になることによって貫かれるのです。
 この勧めは、『あなたがたの間で』と、教会のことです。教会は、仕える人と仕えられる人とを分けるところではありません。主イエスの贖いの愛を一身に受け、主イエスに仕えていただいていることを知る者が、そうした中から些細なことにも仕えられる恵を知ることとなり、神と人と教会に仕える人となるのです。主に在って、共に主に仕え、互いに仕え合う喜びに生きるところでこそ、互いが大きくなる、真に偉くなるのです。


                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)