福音書の中でヨハネのみ、十字架前夜に主イエスが弟子たちの足を洗われたことを記録しています。最年少だった彼の心に刻印されたこの出来事には、他の福音書の描く聖餐制定の記事と類似した深い意義があるのです。
一、真の愛を示すために
この行動を通して、主は愚かな弟子たちに「その愛を残るところなく示され」ました。3年間主と共にいながら、弟子たちはまだ「だれが偉いのか」と争っていたのです(ルカ22:24)。またユダは主を売ろうとしていました。それでも、主は彼らを愛し通されたのです。「敵を愛せよ」と言われた主は、その通りに行動されました。
二、真の関係を示すために
「私の足を洗いにならないでください」と言うペテロに対して、主は、もし洗わなければ「あなたはわたしと何の関係もありません」と答えられました。からだはきれいでも、道を歩いたなら足は汚れます。それと同様、洗礼を受けた後でも、日々の生活をする中で汚れます。だからこそ、いつも主との親しい関係が必要なのです。
三、真の模範を示すために
主は、弟子たちも自分と同じようにせよと命じられました。弟子たちはみな恥いったことでしょう。この世の常識では考えられないことですが、神の国においては、人に仕えることこそが最も大切なのです。だから主は、全人類の犠牲となって十字架上で命を捧げられました。私たちは、人々の模範となっているでしょうか。
「なぜ私がしなくてはならないの?」と思うようなこともあるでしょう。でも、主イエスの愛が心に迫るなら、喜んで人々に仕えることができるようになります。