柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの来臨」イザヤ52章7-10節

今日から待降節(アドベント)です。キリストが私たちの所に来られるのを待ち望むときです。もちろんそれは、およそ2000年前に実現しました。しかし、それはまた、やがてイエス・キリストが再び来られる事を私たちは待ち望みます。


1,回復の実現

イザヤ書52章は、バビロンに捕囚となったイスラエルの民が、バビロンを倒したペルシャ帝国の王クロスによって解放され、エルサレムに帰還することを預言したものです。
神様は、信仰の父と呼ばれたアブラハムを、約束の地カナンに上り入らせることを約束されました。しかし、後の子孫たちの不信仰・偶像礼拝によりイスラエルは捕囚となって異境の地バビロンへと連れ去られたのです。
しかし、イスラエルの民は、アブラハムに対する神の約束と神のあわれみによって再び約束の地に戻ってくることができたのです。これは、私たちに対する神様の約束、すなわち私たちを救ってくださることが確かなものであることを証しするものです。私たちは、約束が破られたら腹を立てて縁を切ります。しかし、神様は愛の神です。そのような愚かで弱い人間を見捨てる方ではありません。
私たちが天国に入れるのは、良いことをするから入れるのではなく、神様は私たちを愛し、神様のあわれみによって天国には入れることができるのです。私たちはただ、そのことを信じるだけです。それで十分なのです。


2,罪の赦し

エルサレムは、バビロンに攻め滅ぼされ、神殿は破壊され城壁は崩されました。神の都は廃墟と化し、もう何も将来も希望もないものとなったのです。人間的に見れば、それは絶望です。しかし、イザヤは「共に喜び歌え」と言いました。なぜそんな状態になって歌うことができるのでしょうか。その根拠は、9節の最後にあります。「主がエルサレムを贖われたから」それが理由なのです。贖うとは何でしょうか。代価を払うと言う意味です。
神様は、私たちを元どおりにしてくださいます。新約聖書ルカ15章に放蕩息子の話が出ていますが、彼は財産を使い果たし一文無しになりました。彼はもう息子と呼ばれる資格はありません、奴隷の一人にしてくださいと帰ってきましたが、父は彼を元どおりの息子として受け入れたのです。私たちも同じです。やがて、神様の前に出る時、神の子と呼ばれる資格はありません、と私たちは言うかもしれません。それでも、父なる神様は私たちを抱きしめ、最上の衣をまとわせ、大歓迎してくださり、天国の宴会にあずからせてくださるのです。ですから、私たちは、救われたことを信じて、天国を待ち望んで、喜んで良いのです。


3,神の救いを見る

神様の救いは、単に精神的なものではありません。心に喜びが与えられ、希望を持って待ち望むことができますが、それ以上にまた、現実のこととして現されるのです。
ラソンの起源は、マラトンの戦いでアテネが勝利したことを一人の兵士が「喜べ、勝った」と言って息絶えたと言う話があります。それによってアテネの人たちは歓喜の声を上げたのです。まさにそれは、喜びの訪れでした。もし、伝えられなかったら、彼らは悲観し、自害していたかもしれません。それほど、喜びの知らせを告げることは重要なことなのです。
 いま、クリスマスの知らせが多くなされている時です。これは私たちに取って、救いの知らせ、喜びのときです。私たちはたとえ苦しくても、人生を悲観してはいけないのです。「キリストが私たちを救うために来て下さった。キリストが私たちを救ってくださるのである」と信じるなら、私たちは永遠の滅びから救われて、新しい永遠のいのちに与ることができるのです。
それが、クリスマスです。キリストは私たちのすべての罪を十字架で赦し、神の子とされたことを知らせて下さるのです。

私たちもまた、この救いの喜びを知らせるものとさせていただきましょう。


       (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)