柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「祈りのひな型」 使徒行伝4章23〜31節

 使徒行伝に記録されているものが教会の原型ですが、その中で教会の祈祷会の原型がここに明らかにされています。祈祷には個人の祈祷もあれば、家庭の祈祷もあり、それぞれに特徴や意味の相違があります。その中で教会の祈祷会が持っている意味は決して小さいものではありません。

 今回は、「教会の祈り」の本来の姿や在り方について明らかにしていきます。


Ⅰ.信仰告白としての祈り  23〜28節

 ペテロとヨハネの二人は、釈放されるやいなや、まっすぐに仲間のところに向かいました。仲間たちはいつもの場所に集まり、おそらく二人の身を案じながら祈っていたことでしょう。そこに姿を現した二人は、ひどい目に遭ったという苦労話のようなものではなく、信仰による勝利の報告をしました(23節)。
それを聞いた仲間一同は、『口をそろえて、神に向かい声をあげて』主を賛美して祈り始めました(24節)。一つの報告がすぐに祈りにつながっています。もたらされた報告は、みんなが我がことのように重荷に覚えています。心を一つにして、すなわち相違がある中になお保たれ得る聖霊の一致でもって祈っています。人にではなく、神に向かって、真剣に、かつ熱心に祈っています。教会としての祈りが身についていたのです。
 そこには、《神の主権を認める祈り》が根底にあります。『主よ。あなたは---』(24節)との強い認識をもって祈っています。人は、自分が主となって、自分の言いなりになってくれる、自分にとって都合よく事が運ぶ神を求めます。しかしここでは、全ての権力は神の手中にあり、私たちはこのお方のご支配にあること、主は迫害を加えるどんな権力者よりも勝った権力者であることの信仰告白をしているのです。
 さらに、《みことばに基づく祈り》です。みことばに照らし、また手がかりとして祈っています。彼らが直面した迫害の意味を旧約聖書を根拠として受け取り(25~26節)、その頂点として具体的な形に現れたのが十字架であるという信仰の理解が与えられたのです(27〜28節)。聖書信仰とは、生活の中にみことばが生きている、祈りの内にみことばによって確信させられることなのです。


Ⅱ.宣教の前進につながる祈り  29〜31節

 教会は、迫害を免れさせてください、あるいは緩くしてくださいなどとは祈りませんでした。「どうぞ、このような困難を見ていてください。私たちに、このような困難にもかかわらず、大胆に神のみことば=福音を語り伝えさせてください」と祈りました(29節)。みことばを大胆に語るために、必要に応じて奇跡のわざも行われることを祈り求めました(30節)。祈りが聞かれたら、また次々と迫害や脅迫が迫ることなどは、彼らの眼中にはないかのようです。いずれにせよ、彼らの願うところは、自分たちの安全ではなく、ただみことばの宣教が前進することでした。
 この祈りは答えられました(31節)。神の臨在が顕著に現れ、祈ったとおりに大胆に神のみことばを語りだしました。そうできたのは、彼らの持ち前の勇気や活動的な気質によるのではありません。祈りが答えられて、『一同は聖霊に満たされ』た結果にほかありません。

 私たちは、教会の祈祷会を大切にしましょう! 教会の祈祷会を盛んにしましょう! 教会の祈祷会を祝福の源とさせていただきましょう! 祈りの力を体験しましょう!

                 (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)