柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「使徒パウロの自己紹介」 ローマ人への手紙 1章1〜17節

 ローマ人への手紙は、パウロ先生がローマにあるキリストの教会に向けて書き送った手紙です。当時、ローマとは世界の中心でした。「すべての道はローマに通ず」といわれていたように、ローマとは当時の世界の政治、経済、文化の中心でした。
 実は、パウロはローマの教会に向けてこの手紙をしたためたといいましたが、パウロはローマの地へはこの当時まだ行ったことがなかったのです。ではパウロはなぜローマにある教会に向けてこの手紙を書くことが出来たのでしょうか。それは、パウロ小アジアをはじめ様々な地で御言葉を伝え、そこでパウロを通して信仰をもったキリスト者たちが、例えばローマに移住し、また例えば仕事でローマへと出張し、またローマに旅行したというような出来事を通してローマにも主を信じる者たちの群れが出来てきたのです。当時の教会は、はじめから会堂のような大きな建物があり、また礼拝のための設備が整っており、また様々な集会の出来る部屋がいくつもあるというようなものではなかったのです。教会の出発は小さな小さな群れからだったのです。礼拝を守る顔ぶれが家族だけであったり、カタコンベとよばれる地下墓所で礼拝が守られたり、河原で礼拝がささげられていました。パウロはこのような小さな群れに向けて、このような壮大な書簡をしたためたのです。私たちは、今もこのような中でささげられている礼拝、開拓中の諸教会での礼拝、迫害を避けてひっそりとささげられている礼拝を思い巡らしつつ礼拝をささげたいものです。
 さて、このような中でしたためられたパウロの手紙は、何を物語っているのでしょうか。わたしは手紙を書く時に最も気を遣うことは、最初の書き出しの部分です。それはパウロも同じだったことでしょう。パウロはその書き出しの中で、自らの自己紹介をしています。それは

1.キリスト・イエスの僕
 「僕」とは「奴隷」のことです。当時の奴隷とは、主人に対しては絶対服従でした。パウロは自らをキリストの「奴隷」であるというのです。しかし、当時のパウロの人となりを考えてみると、彼は将来を嘱望された学者でした。ガマリエルという、当時名の知れた著名な学者の門下生としてその将来は約束されたものだったでしょう。また彼は国会議員としても名を馳せていました。そのような意味において、彼は「奴隷」という名とはほど遠い生活をしていたといえます。しかし、一方彼は同じローマ人への手紙の7章において、自らは罪の奴隷であったと述べているのです。外側は確かに鼻高々の状態であったかも知れません。しかしその内側では罪と死の奴隷であったというのです。それは私たち自身の過去の状態でもあります。しかし、キリスト者を捕えに行った途中でであった復活のキリストによって捕えられ、以来キリストの奴隷になったというのです。私たちも同じ経験を持つ者として、このパウロと同じ「キリストの僕」としての歩みをしたい者です。

2.福音のために「選ばれた者」
 使徒は「選ばれてなる」者です。自らの意志で使徒となった人はひとりもいません。主は12弟子を選ばれた時、くじを引くように選ばれたのではありませんでした。12弟子の任命の前日、主は徹夜の祈りをささげられたのです。私たち自身のキリスト者としての選びの背後にも多くの祈りがささげられたことでしょう。
 しかし、私たちが「選ばれた」からには、そこには選ぶ側の目的があるはずです。すなわち「福音のため」です。「福音」とは「救いを得させる神の力」です(16)。私たちは、この「福音」のために選ばれたお互いなのです。その福音に生きる者とされたいものです。

3.召された使徒
 「使徒」とは、神からのメッセージを持ち運ぶ者のことです。しかしもとは「12使徒」といわれれうように、主が直接選ばれた12人を指して用いられる言葉です。しかし、パウロの挨拶の中で最も多い言葉は「使徒パウロ」という言葉です。しばしばパウロは「彼は使徒ではない」という批判を受けたようです。しかし、彼は堂々と「使徒パウロ」という挨拶を用います。それは「召し」とは自己の意志ではなく、神からの呼びかけなのです。パウロはその神からの召しに応答して使徒としての歩みをはじめられたのです。

 私たちはこのパウロの自己紹介と同じ自己紹介のできる者とされたいのです。いや、私たちは既にそのような者とされているはずなのです。しかし、しばしば私たちは、そのような自己紹介の前に時候の挨拶をしたり、天気の話しをしたり、様々な横道にそれた話しをしてしまう結果、いつしかこの自己紹介を忘れてしまうのです。あるいはこの自己紹介をすることを恥じてしまうのです(16)。そのような者ではなく、私たちはその隣人に向かってパウロの自己紹介のできる者とされようではありませんか。

                (説教者:西大和キリスト教会 牧師 宮沢 清志)