柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「計量にパスできますか」 ダニエル書5章24〜28節

 ダニエル書の中に、『メネ、メネ、テケル、ウパルシン』と聞きなれない不思議かつ不気味な言葉があります。何の呪いか、と思ったりもします。キリストが降誕される500年ほど前に(紀元前538年)古代世界で最強を誇っていたバビロン帝国最後の王『ペルシャザル』の時、王は自分の力を誇示するために大パ―ティ―を開き、エルサレム神殿からの略奪してきた神の器を持ち出して酒盛りをし、偶像を拝していました。すると突然、人間の手の指が現れて、王の宮殿の白壁に意味不明の字が書かれたのでした。この出来事に、王の顔面は蒼白となり、腰のつがいもゆるんで、ひざもガタガタと震えました(1〜6節)。
 そのアラム語で書かれた文字を解き明かしたのが、ダニエルでした(13節)。『メネ』とは「数えられる」との意味で、二度繰り返されているのは、それを強調しており、「あなたの余命はいくばくもない。もうすでに秒読みに入っている」ということで、事実この傍若無人にふるまっていた王は、その夜のうちに世を去ったのです(30節)。『テケル』とは「量られている」という意味で、「王よ、あなたは自分を相当高く評価してうぬぼれているかもしれないが、神の量りによればはるかに下まわっている、不足していることを知らないのか」ということです。『ウパルシン』とは「そして、分かたれる」という意味で、バビロン帝国が二つに分裂することを予告したのです(31節)。
 これは、どこかの国の昔話しなのでしょうか。いいえ、私たち一人ひとりに関係のないことではなくて、自分の姿か知らされ、そこには滅びしかないことを心しなければならないことを語っています。人が最も勇気ある姿とは、自分の本当の姿を知らされた時に、それを直視しつつ、そこからの救いを謙虚に求める姿勢です。


Ⅰ.終わりの日にあたって

 この世の中のことにしても、自分の人生のことにしても、人間は自分ではなかなか見極めがつかないものです。今までの状態がいつまで続くのか分からないものです。そのことを見方を変えて言うならば、おおよそどんな世も、どんな時代も、「初めがあり」、そして「終わり」を迎えなければならないのです。その終わりを迎える原因たるや、神を畏れ敬わずにいる人間の高慢であることが指摘されています(18〜23節)。
 私たち一人ひとりの、一回限りである地上の生涯も「初めがあり」、そして「終わり」を迎えるのです。それが、いつなのか分からないのです。ご存知であるのは、神のみです。
もしかしたら、自分のいのちも秒読みに入っていることを知らされているのではないでしょうか。そんな不吉な言い方は好まれませんが、しかし、『メネ、メネ』との現実を忘れてはならないでしょう。


Ⅱ.神の規準に照らしてみて

 続いて、『テケル』との事実に、一体誰が、神の量られる秤に耐えられるでしょうか。『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており』(ロ―マ3章23節)とあります。「受けられなくなっており」とは、「短い」「届かない」との意味があり、人間はどんなに努力・信心・善行をしてみても、神の規準に達することはできないことを知る必要があります。ことに神の量りによれば、ペルシャザルのように高慢になって、自分が正しい、よく出来るとか言って自惚れているほど、軽く見積もられます。神の計量にパスできるとお考えの方はおられるでしょうか。
 言うまでもなく、誰一人として神の規準に達するはずはないのです。また、誰も自分の命の終わりの日を予測できません。だからこそ、神の福音が必要なのです。罪人を招き、手を差し伸べられ、十字架上で釘づけられたイエス・キリストの贖いがなければ、神の計量にパスできて義と認められることはないのです。このイエス・キリストを信じ仰ぐのみです。


                      (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)