柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「永遠のいのちに生きる」 マルコによる福音書10章17〜31節

 この肉体をもった地上の生涯は、「永遠」と比べるならば一時てあり、この一時の中で何を得るか、何を見出すかということは、一人ひとりにとって重要なことです。それについて聖書は、『ひとりの人(青年、役員)』が問いかけているように、『永遠の生命を受ける』ことだと主張しています。


Ⅰ.それでも主に愛されている  17〜27節

 この青年は永遠のいのちを求めて主イエスのところに来た、立派な求道者です。群集心理に動かされないで一人で来るほどに、真剣でした。『走り寄り、みまえにひざまずいて』求めるほどに、熱心でした。また『よき師よ』とイエスを敬う、真面目な人でした。そんな彼の『永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか』との問いかけに対して、主イエスは「神だけが尊いお方であるから、その神の戒めが善の物差しである。その戒めに生きているか」と尋ねられたのです。得意げに答える青年に、『あなたに足りないことか一つある。・・・』との主イエスが迫られたことに対して、彼は悲しみながら立ち去ったのでした。「何をしたらよいでしょうか」と言っているのは、自分の努力・信心・行いで永遠のいのちを受け継ぐことができると考えていたのです。そこには、戒めを完全に守り抜くことができないという自分の弱さ・罪を知らずに過信している姿と、神が永遠のいのちをどのように与えられるかという「神の救い」について分かっていない姿があります。主イエスが『天に宝を持つ・・・わたしに従ってきなさい』と言われたことは、人間自らの力・信心・努力ではできないが(23〜26節)、全能の神には可能なことです(27節)。
すなわち、「あなたが積み上げてきたものを下ろしなさい。永遠のいのちを得るには、それが条件です。そういうものを第一として、捕らわれていては受けることはできません」ということです。
 ところで、この富める青年に対して、主イエスは諦めにも似た気持ちで、冷ややかに見捨てられたのでしょうか。いいえ、『イエスは彼に目をとめて、いつくしんで(愛を抱かれた)』くださったのです。愛に欠けた課題のある富める青年を、素直に従えない弱い者を、ただひたすら主は愛されたのです。失敗があり、欠けだらけのお互いですが、この愛の招きのおことばをバネにして、主の愛の懐に飛び込みませんか。そうしたら、あなたは永遠のいのちの中に生きることができるのです。


Ⅱ.だから主を愛する  28〜31節

 主イエスの愛の中に飛び込むことに、豊かな財産=学歴・知識・経験・名誉・貧しさが邪魔になるなら、それらを捨てて、主イエスに従うことが求められています。これは、豊かなことが悪であるというのでなく、主の愛の中に飛び込ませなくさせることに注意を促しているのです。主イエスに愛されていることを知るなら、主を愛させていただき、主に従わさせていただき、主の後について行きたいと、自ら願うようになるのです。これこそが、永遠のいのちに生きる者の新しい生き方なのです。
 『わたしのために、福音のために・・・捨てた者は、必ずその百倍を受ける。・・・きたるべき世では永遠の生命を受ける』とは、今地上にあっても主の祝福と喜びの中に生きるのであり、それは永遠につながる恵みなのです。ただ、自分は多くのものを捨てたと誇っている『先の者』には警戒を、自分の報いは少ないだろうと思っている『あとの者』には慰めを与えていてくださいます(31節)。
 十字架にお架かりくださった主イエスに、こんなに愛されていることに敏感にならせていただき、主を愛していくところに、永遠のいのちに生きる醍醐味があります。


                       (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)