柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「いのちの水」黙示録22章10-17節

黙示録は、迫害の激しい中にあって希望を与える神の御言葉であり、私たちにとっても救いと力を与える神のことばです。

1,キリストの再臨

12節に「わたしはすぐに来る」とイエス様は約束されました。迫害の中にいるクリスチャンにとっては慰めであり、希望でした。そして、彼らの望みは天の御国に入ることでした。その当時ローマ帝国は腐敗していました。後には二つに分裂するのですが、内側から崩壊していったのです。それはまた、現代に生きる私たちにとっても神様からの忠告であると思います。 11節には、不正を行う者と正しい者、汚れた者と聖徒の対比が出て来ます。それは今の時代でも同じことです。私たちはこの世に生きていますが、この世の悪に染まって同じように不正を行うのではなく、むしろ万物を造られ支配され、すべてを裁かれる主なる神様を畏れて生きるべきです。
なぜなら、イエス様は再びこの世に来られて、すべての者を裁かれます。そしてイエス様は12節を見ると「私の報いを携えてくる」と約束されました。この世で受ける報いは、はかないものです。たとえこの世で、経済的な豊かさを受けたり、人から褒められて名声を得たり、はたまた一生懸命頑張ってこの世の力ある者になったとしても永遠には続かないのです。やがて滅び失せてしまうのです。
それでは、何が幸いであるのか、それは14節に出て来ます。天国の門に入ることです。そして「いのちの木の実を食べる権利が与えられる」ことです。アダムとエバは失敗しました。彼らはエデンの園の中央の木の実を食べようとしましたが、食べられませんでした。今日まで多くの者が永遠のいのちを求めています。しかし、それは自分の努力や力で取ることはできません。しかし、神様は与えて下さいます。誰に与えられるのでしょうか。それは自分の着物を洗った人です。私たちは服が汚れたら洗濯をします。きれいになります。
では、私たちの魂は何によって洗いきよめられるでしょうか。それは、御子イエスの血によってでしかきよめられません。十字架の血潮によらなくては、私たちの魂はきよくなることはできないのです。しかし、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめるのです。十字架の血潮によってきよめられ、新たにされて私たちは天国の門に入り、そしていのちの木の実を食べることができるのです。


2,いのちの水を求める

あの1世紀のクリスチャンたちの望みは何だったでしょうか。それは、再臨のキリストを待つことでした。彼らは今か今かと待っていたのです。17節に花嫁とありますが、まさに花婿を待つ花嫁のようにキリストの再臨を待ち望んでいたのです。ですから、彼らの合い言葉はマラナ・タ(主よ来て下さい?コリント16:22)でした。主を愛するクリスチャンにとって殉教も恐れではなく、キリストにお会いすることができる大きな楽しみまた喜びでもあったのです。
しかもイエス様は、ただ待たせるだけではなく来なさいと招かれます。それは「いのちの水」を与える約束です。そのことはヨハネ7章37節「だれでも渇いているなら、わたしのものに来て飲みなさい」と言われたことであり、御聖霊のことであるのです。弟子たちは後、聖霊を受けて姿変わりしました。大胆に救い主イエス様を証し、迫害をもものともしなかったのです。彼らの心には喜びが満ちあふれ感謝でいっぱいでした。私たちもまた、神の御国を待ち望み、いのちの水によって魂も心も潤されて主を喜ぶものとさせて頂きましょう。


          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)