柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「この人による以外に救いはない」 使徒行伝4章5〜22節

 ペンテコステの出来事は、臆病者を大胆な者と変え、主の証人を生み出しました。「美しの門」での奇跡とそれに基づく福音の宣証は、逮捕・抑留という迫害(1〜4節)、議会での審問と波及していきました(7節)。
 そうした最中にあっても、ペテロたち弟子たちをして『大胆(確信をもって)』にキリストを証言させたのは、何によったのでしょうか(13節)。


Ⅰ.揺るぐことのない確信 12節

 『いったい、なんの権威(デュナミス=力)、また、だれの名によって』(7節)との問いかけに対して、それは十字架上での死からの復活をされたイエス・キリストによることを証言していますが、さらに旧約聖書を引用しながら論証しています(7〜11節)。もともとは、神殿再建の工事中に、家を建てる者たちに捨てられた石が、神殿完成の時には、二つの壁が合わされる『隅のかしら石』となったという、神の不思議な摂理のわざをたたえる歌でした(詩篇118篇22節)。このことを新約聖書の光に照らし合わせると、「神の家を建てる者であるはずのあなたがたから捨てられたイエス・キリストは、復活されたことにより、あなたがたが神の家に連なることのできる礎石となられた」ということです。
 そうした意味で、『この人による以外に救いはない』という断言が出てくるのです。日本人の宗教観の中に、「宗教はどれも同じ」と、いかにも物分りよさそうに簡単に言ってのける人がいます。また、「もしよろしかったら、キリスト教もどうぞ」と勧めて、後は相手の選択にまかせることで済まそうとしたりします。もしそうだとしたら、何もペテロたちのように、身の危険を冒してまで伝道する必要などありません。『この人による以外に救いはない』との揺ぎない確信があるところに、大胆さが生まれるのです。


Ⅱ.否定しようもない事実 14、16節

 議会におけるやりとりが、ただ議論の応酬だけだったならば、ペテロたちはやり込められていたかもしれません。しかし、最高の権威筋を向こうに回しながら、一歩も引くことなく大胆に語ることがてきたのは、『いやされた者がそのそばに立って』いたからです。この否定しようのない事実の前には、さすがの大祭司たちも『まったく返す言葉がなかった』のです。
 教会が『この人による以外に救いはない』とどんなに声をからして宣べ伝えたとしても、現実に救われている人がおり、その人たちが生き生きと喜びに輝いた生活をしているという生き証人がいるかが問われます。さらに、周囲の人たちが『神をあがめていた』という裏づけが求められます(21節)。
Ⅲ.語らないわけにはいかない福音 19〜20節
 議会は、ペテロたちが公然と『イエスの名によって語ること(大声で語る)』を禁じました。しかし、そのような言い渡しに屈する彼らではありませんでした。聖霊に満たされ、信仰に生きるゆえに、その権威を恐れず、まるで立場を逆転させるようにして、神の前に正しいことを大祭司たちに迫ったのです。「伝道とは、神への服従の現れである」との認識が、ペテロたちをして大胆ならしめたのです。
 自分だけ天国に行けばよいとか、自分の教会だけ祝福されればよいというのではありません。『・・・もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである』(Ⅰコリント9章16節)。
 ところで、直接福音を語る者も、しない者も、無言の言動や生活をもっているのがキリスト者です。福音に生き生きと生かされて喜ぶ、何事も恐れない、神に望みを託して他者に仕える、という信仰の自由による従順に生きてこそ、教会の一大説教活動に仕えることになるのです。そう言えば、主イエスが十字架におかかりになるとき、やはり無言でした(マルコ15章5節、イザヤ53章7節)。あの無言は、無気力な無言ではありません。力と愛に満ちた無言でした。主イエスは、その無言のうちに私たちの救いを果たされたのでした。私たちは、福音を語るとともに、無言の言動によって、『この人による以外に救いはない』と主イエス・キリストを証し、その救いを伝えるのです。

                       (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)