柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「あなたの隣人とは」 ルカによる福音書10章25〜37節

 この箇所は、2つの物語を含んだ、キリスト者の間では非常によく知られた箇所です。この物語の発端は、ある律法の専門家が挑んだ次のような論争からはじまります「何をしたら永遠の生命が受けられますか」と。この質問は、同じルカによる福音書18章にも投げかけられています(18章18節)。その箇所はある役人がイエスに投げかけた質問でしたが(マタイ19章20節では「青年」)、この箇所では律法の専門家がイエスに投げかけた質問でした。古今東西、老若男女「永遠の生命を受けること」は人生最大の関心事でした。この律法の専門家には、その解答は分かっていたのです(28)。しかし、彼が追い求めていたものは、あくまで「自分の正しさ」(29、新改訳)だったのです。

 そのような中、主がその律法の専門家に対して語られたことは「神の国」の倫理観に生きることだったのです。主が語られた教説は「神の国」の教えです。この「よきサマリヤ人」のたとえの中でも、主が語られたたとえは、強盗どものような「あなたのものは私のもの」という価値観や、祭司やレビ人のような「私のものは私のもの」という価値観ではなく、この「サマリヤ人」のように「私のものはあなたのもの」という、いわゆる「愛の実践」に生きる価値観だったのではないでしょうか。

 このサマリヤ人は、強盗どもに襲われた人を見ると「気の毒に思った」(33)のです。この言葉は、主イエスの心の動きの中によく登場する言葉で「はらわた痛む」という意味です。私たちは、私たちを必要としている人、倒れてにっちもさっちもいかないような人に対して、この「はらわた痛む」ほどの思いを持つことが必要です。

 「はらわた痛む」思いをもつ時に、それが「近寄って」手当をするという行動となって現れます(34)。この人に応急処置の知識があったかは分かりませんが、自分の持てる精一杯の行動となって現れるのです。

 そして、そのような行動の根底にあるものは、律法に示された「愛」であり(27)、アガペーの愛なのです。それは「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」(25)という問いに主イエスにあって解決を頂いた者のみがなし得る業であり、その者は同時に「私たちを必要としている者」すべてに対する隣人となることが期待されているのです。


  (説教者:西大和キリスト教会牧師 宮沢 清志)