柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「最大のしるし」 マタイによる福音書12章38〜41節

一般的に、人々が宗教に求めるものは、大まかに言えば二つであると聖書は語っています。『ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める』(Ⅰコリント1章22節)とのみことばに象徴されています。「しるし」つまり、何か不思議なことをしてくれるもの、何か私たちのためになる良いことをしてくれるもの、それが神で、どれだけ御蔭があるかどうかで神の善し悪しを決めるといった考えは、何もユダヤ人に限ったことではありません。また反面、「しるし」すなわちご利益といったものに関心を示さず、いやむしろ嫌悪さえ感じる人々もいるほどで、それらの人々が期待するものは、「知恵」という人生哲学といった思想的な知的な欲求を満たしてくれるものに期待をもったりします。
そのような求めに十分に答えられるにもかかわらず、イエス様は敢えてそうなされませんでした。ここに、「最大のしるし」を身をもって示し、現されました(39節)。


Ⅰ.その実体:キリストの十字架の死と復活 38〜40節

ここに、旧約聖書の預言書に登場する「ヨナ書」から、キリストご自身が引用されています。そこには、キリストご自身の死からの復活について語られるに際し、貴重な意味が含まれているからです。『ヨナのしるし』とは、三日間も大魚の腹の中にヨナがいたように、キリストも足かけ三日間、地の中にいるという意味です(40節)。それは、キリストご自身が墓の中から三日後に出てこられる、すなわち復活を意味しています。
イエス・キリストが救い主であることの最大のしるしは、十字架の死とそこからの復活以外にはありえないのです。もし、キリストの復活がなかったら、キリストはキリストでなくなり、キリスト教もまた存在し得ないのです。ある人々は、「復活ということさえなければキリスト教もいいのだが―――」と主張します。しかし、キリスト教から復活を除いたら、それは一部を削除したということではなく、根底からキリスト教でなくなってしまうのです。『もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい(実質のない)』(Ⅰコリント15章14節)ものになるのです。


Ⅱ.その実質:悔い改めと信仰 41節

さて、ヨナの時代も、キリストが地上に来られた時代も、そして今の時代も『邪悪(悪い)で不義(姦淫)な時代』(39節)、『今の時代』(41節)、『よこしまな時代』(45節)です。そこは、生ける神の愛を裏切って、神でないものを神としたり、自分を神としたりして、神のおこころを痛める悪しき罪が支配しているのです。こうした「時代」という言葉は、「何て悪い時代だ」「私はそうした者ではない」と自分自身をそこの中に含めないようになりがちです。しかし、『時代』という語には、「同世代の人々」という意味があり、そこに生きている一人ひとりを指し示しているのです。そこには、「私は、邪悪で不義な者です」との認識があるのです。
そんな私たちに、復活されたキリストは、悔い改めを求め、呼びかけておられるのです。「悔い改める」とは、一体どういうことでしょうか。「悔いる」という言葉から、どうしても後ろ向きの心がつきまといがちになります。くよくよと「悔やむ」ことになりがちです。そうしたことが、自分を責め、嫌悪にし、傷つけ、攻撃することにもなります。そうかと思うと、「一億総懺悔」「私たちは懺悔し謝罪する」と言われるように、本当の責任の所在が曖昧にされているとも言えます。
しかし、聖書がいう「悔い改める」とは、人類の最大の問題である罪と死に対する救いの道を開かれたイエス・キリストを拒否しないで、心を開いて十字架と復活の主を受け入れることです。「ありがとう」と申し上げて、罪から離れて神に向きを変えた人生、自己中心の自分から離れて神中心へと方向を転じた新しい人生に生きることです。今、私たち一人ひとりが、イエス・キリストのもとに立ち帰って、憩いと安らぎを得ようではありませんか。「こちらを向いてほしい。イエス・キリストのもとに立ち帰ってほしい」と招いておられる神の声を聴いておられませんか。
                      (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)