柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「十字架の祝福」マルコ8章34-36節

厳しい残暑が続いていますが、その中にも神様の守りと信仰が与えられていることは幸いです。どんな困難な中にも神様は私たちに救いの道を備えて下さっておられます。


1,避けられない苦しみ

私たちは、この世に於いては様々な苦しみがあります。釈迦も生老病死の苦しみがあると語っています。彼は人間でしたから、それらを克服することは出来ませんでした。
しかし、キリストはちがいます。神が人となられて、私たちを救いに来られました。その究極は、復活です。死よりよみがえる、死に勝利されたことを、身をもって証しされたのです。ですから私たちは、究極の勝利―復活に預かっていることを信じて、信仰により様々な問題を乗り越えることが出来るのです。


2,十字架を負う

エス様の時代、人々は救い主メシヤを求めていました。しかし、イエス様に関しては、預言者の一人としてしか認めていませんでした。なぜなら、神が人となって私たちと同じように苦しみを受け、そして、十字架にかかって罪を赦して下さることが理解できなかったからです。ですから、あなたこそ生ける神の子キリストですと告白したペテロでさえも、イエス様が十字架にかかって死なれることが理解できなくて、そんなことはないと否定したのです。
クリスチャンの信仰は、十字架によってはっきりとされます。イエス様は、「自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」と明確に語っておられます。決して、クリスチャンになったら、すべてがハッピーで何でも自分の思い通りになるとは言っておられません。なぜなら、キリスト教信仰は自己満足の信仰ではないということです。この世の者を求めて満足する御利益信仰でもありません。むしろ私たちは、この世ではなく、天国でその栄光に預かる信仰です。イエス様は、朽ちずしぼむことのない天に宝を蓄えなさいと言われました。
この世と、欲は過ぎ去るのです。この世で栄華を極めたソロモンでも、天下統一をなした秀吉でも、一切は空の空、夢のまた夢と言って死んだのです。この世で得たものを天国までもっては行けないのです。
むしろ、私たちはこの世では、苦しみがあることを心して、十字架を負って行く生涯であることを自覚するなら、様々な困難を克服していくことが出来ます。自分の十字架とはなにか、それは、苦しみではありません。十字架は殺すための道具です。それは、自我に死ぬことを意味しています。その前にある、自分を捨てという言葉とつながっています。クリスチャンの生き方は、自分を捨てる、自分のことを勘定に入れない、キリストがゲツセマネの園で父なる神に祈られ、開け渡して従われたように、私たちは自分を十字架にかけて死に、まったくキリストに開け渡して、従うことです。


3,キリストについて行く

十字架にキリストがかけられるとき、途中で倒れ、クレネ人シモンが無理やり十字架を背負わせられました。それは、大きな恥であり、重荷であったと思います。しかし、彼の負った十字架は、やがて一家の救いとなり、息子たちアレキサンデルとルポスは聖書にも出てきています。
キリストについて行くことは容易ではないでしょう。しかし、困難に勝る喜びがあります。それは、永遠のいのちの喜びです。たとえ全世界を手に入れても、自分が滅んでしまったら何の得にもなりません。しかし、キリストに従いついて行くなら永遠の命に預かり、やがて天の栄光を見る者となるのです。復活のキリストにお会いし、労苦は解かれ、よくやったとねぎらいの言葉をいただき、共に天の栄光に預かる者となれるのです。


       (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)