柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主に従う幸い」マタイ16章24~26節

今私たちはコロナ禍の中にあります。不安や恐れ、行動の不自由さを感じますが、私たちがこの時代を乗り越えるために、全能の神さまは私たちに信仰の賜物と力を与えて下さいます。

1,自分の十字架を負って従う

 イエス様を取り巻く当時の人たちは、イエス様が本当に救い主かどうか知りたがっていた。そのことが表されているのが、この16章であると言えます。イエス様は旧約聖書の人物ヨナを通して復活のことを語られました。そしてさらに、弟子たちにご自分のことを尋ねられました。ペトロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えました。これは父なる神様からくる信仰告白です(17節)。それとは対照的に、十字架にかけられることをイエス様が語られたとき、なんとペテロは否定しました。その時イエス様は「下がれ、サタン、神のことを思わないで、人のことを思っている」と強く否定されたのです(23節)。

 言うなれば私たちもまた、イエス様をどのように信じているのか、今そのことが問われる中に生きているのです。そこで改めて弟子たちに言われたのが、「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」とイエス様は言われました。自分を捨てるとは、自分を勘定に入れない、自分の利益を求めないことです。私たちは、どちらかといえば、まず自分の益になるかを考えると思います。しかしイエス様はそれを捨てなければならないと言われるのです。

 また更には、「十字架を負って」と言われます。十字架とは何か、それは死刑の道具でした。生きた人間を磔にして死ぬまで放置する。残酷な死刑の道具です。それを負ってキリストに従うのです。これが実際でしたら、まったく不可能です。しかしこのことは私たちの日常で嫌なこと避けたいことを放棄しないで、担いで従いなさいと言われるのです。しかも自分の十字架です。自分自身の重荷を負って従うことです。ですから、目の前にある困難や苦しみを避けることをしない。逃げないことを私たちにイエス様は求めておられます。どこに解決があるのでしょうか。「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる」(詩50:15)と約束されているのです。神様は私たちに、「白髪になってもあなたを背負う」と約束されています(イザヤ46;4)。

2,永遠のいのちを求める

 十字架を負ってイエス様に従うことは、場合によっては自分のいのちを捨てるような結果にもなります。人間にとっていのちほど大切なものはありません。しかし聖書には、2種類のいのちがあります。この世でのいのちと永遠のいのちです。この世に生まれた人はこの世のいのちを持っています。でも永遠のいのちは持っていません。どうすれば永遠のいのちを得られるでしょうか。それはヨハネ3:16にありますが、御子イエスを信じることによって、永遠のいのちを得ることができるのです。それは信仰のいのちであり、来たるべき永遠の御国で生きるいのちです。25節の自分のいのちとは、この世でのいのちです。それを第一にしていくなら、この世のことに心が捕らわれるなら、永遠のいのちを見失ってしまいます。逆にイエス様に従って自分のこの世でのいのちを失うことがあっても、永遠のいのちを得ることができるのです。ですから、26節に、全世界を手に入れたとしても永遠のいのちを損してしまったら何の得があるかということです。得することはありません。すべてを失ってしまいます。

 ですから、私たちはまず永遠のいのちを第一にすることです。それは、御子イエス・キリストを信じることによって与えられます。永遠のいのちが与えられれば滅びることはありません。この世でも必要なものはすべて添えて与えられます(マタイ6:33)。また、天国で永遠に生きることができるのです。その約束として、イエス・キリストは死の中からよみがえられました。そして永遠のいのちを約束されたのです。

 この世で生きることは楽ではありません。しかしイエス様を信じて、信仰によって十字架を背負って従うときに、慰めと励ましが御言葉と聖霊によって与えられ、困難をも乗り越え勝利して行けるのです。私たちは信仰によってイエス様に従っていく者とさせていただきましょう。

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)