柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「わたしにあるもの」 使徒行伝3章1〜10節

 誕生したエルサレム教会における「最初の奇跡」の出来事は、単に一つの例を紹介したというだけでなく、この奇跡を契機として「ペテロの証言」(11〜26節)、続いてペテロとヨハネの留置、そして教会に対する迫害の過程が示されています(4章1〜31節)。

 この奇跡の中には、キリスト経験、聖霊経験といったことが含まれており、福音の真理は「人格から人格に」伝えられていくことが明らかにされています。


Ⅰ.自覚的なキリスト体験  『わたしにあるもの』

 祈りのために宮に来る人々から施しを求めて、毎日『美しの門』に運ばれ置かれていた『生まれながら足のきかない男』がいました。彼は、この門以上は入ることが許されず、この門を通って礼拝をささげる人々から軽蔑のまなざしと哀れみを乞うていたのです。そこを通り過ぎようとするペテロとヨハネが、この男に『わたしたちを見なさい』と招き、期待して注目する彼に、『しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』と語りました。使徒たちが施しをしていたら、彼は一生涯人の哀れみでしか生きられない人となっていたでしょう。彼は、『立ち、歩き出し』て、神を賛美し礼拝する者に造り変えられて、新たな自立する人になったのです。
 『わたしにあるもの』とは、いただいて持っているイエス・キリストご自身です(へブル4章14節参照)。それは、単に聞いている、知っている、理解しているという以上に、自覚しているということです。自覚している内容は、キリストご自身が「私の救い主」であり、「私の主」であるとの自覚です。このお方が私と共におられて、全てを支配しておられる「内住のキリスト」であることを自覚していることです。こうした自覚的なキリスト体験は、自ずと内から歓喜・平安・安息、さらに永遠への希望が溢れてくるのです。
 自己経験なしに他人の経験に依存していると、個人の直接経験は希薄になります。分かっていないのに、分かった気になります。いただいていないのに、持っていると錯覚してしまいます。情報過多の時代に大切なことは、どれだけのことを知っているかというより、何を、どなたを知っているかです。どれだけのものを持っているかよりも、何を持っているかです。イエス・キリストご自身を知っている、持っているということが大切です(ピリピ1章20節参照)。


Ⅱ.自覚的な聖霊体験  『・・・をあげよう・・・』

 使徒たちは、男の願っているものを与えることはできませんでしたが、彼の必要とされているものを提供することができました。主イエス・キリストと彼とを結びつける、復活のいのちと新しく生まれ変わる必要のある人間を結びつけることができました。
 それは、愛による御わざでした。愛は悩める者に関心を示し、一時的な愛ではなく、最も必要とするもの、すなわち自立して歩み出せるために手助けをすることを提供したのです。また、キリストの名による御わざでした。彼らの内に、奇跡を行う力はなく、あくまでも手を貸しただけです。『イエス・キリストの名によって』とは、「イエス・キリストご自身によって」という意味です。そして、神に栄光を帰する御わざでした。いやされたことの歓喜ゆえに神を賛美することを忘れなかった男は、何よりも神に栄光を帰して礼拝をささげました。それこそ、彼の心の中に変革が起きたことを現しています。
 この伝道の画期的展開は、どうして起きたのでしょうか。『わたしにあるものをあげよう』と、恵みの主イエス・キリストに全く明け渡して、自覚的な聖霊の御わざを拝するところに起こったのです。

                    (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)