柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「幼子のように」 マルコによる福音書10章13〜16節

 ここに登場する幼子は、おそらく主イエスとその御わざについて見聞きしていた両親によって連れられてきたのでしょう。主イエスは、幼子一人ひとりを抱き、手をその上において次から次に祝福し続けられました(16節)。そこには、主イエスのおこころと、人に対する見方が明らかにされています。


Ⅰ.小さな者を受け入れられる主  13〜14節

 主イエスの祝福を幼子に受けさせたいと願って連れられて来た人々に対して、主の弟子たちは叱っています。彼らは、イエスがあまりにも忙しいので、幼子のためにこれ以上イエスを煩わせてはいけないと思ったのでしょうか。幼子は主イエスのことを理解できない、その御ことばを聴き分けられない、主イエスの役に立たないと思ったのでしょうか。そのように理解も信仰もないのに、さわっていただくために来るとは、迷信的行為ではないかと考えたのでしょうか。
 しかし、それに対して主イエスは、その弟子たちを『憤り』、妨げてはならないと幼子を受け入れられ、神の恵みと祝福の中にあることを示されました。言わば、祝福される主イエスが、その祝福されることが遮られた時に、思わず憤られたのでした。
 『神の国はこのような者の国である』とは、幼子のような小さなもの、価値がないと見られているもの、人間の弱さ・無力・未熟さを持ち合わせているものが招かれ、受け入れられるのです。これは、聖書の中に示されている明らかな真理です。今日の教会を形成している私たちも、このような小さなものです。『無きに等しい者を、あえて選ばれた』のです(Ⅰコリント1章28〜30節)。
 警戒したいことは、私たちが主イエスの祝福を遮って、幼子を含む多くの人々を退けていないか、ということです。また、神は、大きな存在しか用いられず、「どうせ私などは」と言って神の恵みに生きることに無関心になったり、それを無駄にしたりしていないか、ということです。逆に、「私こそ」と思い上がって、自分の「小ささ」を忘れて高慢になり、神の恵みの御わざを止めてしまっていないか、ということです。


Ⅱ.信頼する者を受け入れられる主  15節

 『だれでも幼子のように・・・』とは、「子供っぽくなれ」「子供のようにわがままでもよい」と言っているのではありません。幼子は、無邪気で可愛い天使のようなところがあるかと思うと、『まむしの子らよ』と言われるように、罪を持っています。
 では、どのような点において幼子のようになることを言っておられるのでしょうか。『神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない』とは、『こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである』(マタイ5章3節)との御ことばに通じ、神のみに頼って生きようとするものです。すなわち、神抜きで生きていける、自分で自分の罪や死の問題は解決できる、自分で自分を新しく変えることができると思い上がっているのではなくて、これらのことには全く無力で、何ら功績も誇るものも持ち合わせていない、神にのみ信頼をおいて生かされる以外にないことを知って、そこに身を置くことです。
 今日、私たちも主イエスのところに幼子を連れてきて、主が祝福してくださることを求め願いつつ、自らもその祝福の中に身を置くために、ひざまずくのです。さて、「ただ信じなさい。ただ主イエスの十字架を信じ、救われなさい」との「ただ」は、「功績によらず、わざによらず、ただ恵みによる」ということです。しかしそれ以前に、この「ただ」は、何もしなくてもよいという責任の免除を意味するものではありません。自分ではどうすることもできない、救われるにはキリストの十字架にすがる以外に方法がないという、自らに絶望していることです。私たちは、神の御前における自らの罪深さと、こころの貧しさとを軽く見積もってはならないのです。

 人間の無力よ、キリストの恵みの豊かさよ!


                     (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)