柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主を畏れる心」 使徒行伝2章37−47節

 「恐れ」を知る心は、危険を避け、身を守り、信頼する心を持たせてくれます。逆に、「恐怖」の心は、生きる力を失わせます。「使徒行伝」の中にも、この恐れや恐怖をいだいている場面があるとともに、『主をおそれ』て前進していった教会(9章31節)、『みんなの者におそれの念が生じ』たと(2章43節)、畏れを知る教会の姿が描かれています。この「畏れ」は、敬うとか敬虔との意味があり、神を敬い、キリストを崇めることに通じています。これは、キリスト者とその教会がいただいている「主を畏れる心」です。
 この「主を畏れる心」があるとき、信仰の本来の姿が現れ、生き生きとした信仰生活が生み出されていくのです。


Ⅰ.真の回心へと導く  37−41節

 神に対する恐怖の恐れは、私たちの心の底で密かに神から離れようとしたり、神抜きに生きていこうと願います。神のみことばに背いて『恐れて身を隠した』最初の人アダムがそうでした(創世記3章10節)。その結果、罪の責任転嫁が起こり、神への信頼や神の御心を知ろうとすることがなくなりました。
 それとは反対に、神への畏敬の畏れは、他に責任転嫁をすることなく、被害者意識に立った態度でなく、神に近づけさせるものです。
 ペテロを通して福音が大胆率直に語られたことに対して、人々はそれに正しく応答しました。単刀直入なメッセ−ジに『強く心を刺され』たと《罪の自覚》がもたらされました。続いて、『わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』という切実な《求道心》へと導かれました。そして、『悔い改めなさい・・・バプテスマを受けなさい・・・』との『勧めの言葉を受け入れた』との《回心》が起こされています。それは、ちょうど十字架上の強盗の一人が、『神を恐れないのか』(ルカ23章40−41節)と、主イエスに対する畏れの心を持ったのと同様です。
 十字架につけられたイエスこそが私の救い主であることを認め、これまでの自己中心な生き方から神中心の生き方に改め、イエス・キリストの十字架と復活に結び合わされて『イエス・キリストの名によって』バプテスマを受けることか大切なのです。


Ⅱ.活きた信仰生活に導く  42−47節

 神に対する恐怖の恐れは、信仰生活を結局は息苦しくし、信仰生活の活力を奪うものとなります。
 それとは反対に、神への畏敬の畏れは、私たちの信仰生活・礼拝生活・教会生活を活き活きとさせます。説教者を通して語られる《福音を聴き従う》ことにおいてです。福音によって与えられている恵みを共有する《霊的な交わり》においてです。それには、聖餐の恵みを共有する交わりがあり、一つの神の家族としての分かち合いの交わりがあります。また、《祈りに忙しい》ということにおいてです。
 こうした敬虔な教会生活と温かい交わりは、周囲の人々の関心を呼び、『すべての人に行為を持たれ・・・主は、救われる者を日々に仲間に加えて下さった』という、主に信頼される教会となりました。
 『みんなの者におそれの念が生じ』とは、一時的なことではありません。継続して「主を畏れ続ける」ところに展開されていくのです。主を畏れる心から溢れ出るものを、注ぎ出す一人ひとりであり、教会でありたいものです!


                       (説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)