柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「聖霊に満たされる」使徒2章1-4節

ペンテコステの日はいわば教会の誕生日と言えます。多くの人は、教会は外国から宣教師が来てその豊かさでもって建てたと考えていると思いますが、教会の誕生はそうではありませんでした。むしろ、弱い人たちの中に神様が働かれ、彼らを用いて教会が誕生したのです。
ペンテコステ(五旬節)とは、刈り入れの祭りです。旧約聖書では、麦を刈り取り、祝う祭りでした。それは、過越の祭りから数えて50日ということになります。イエス・キリストが十字架にかけられ死の中からよみがえられて50日目がペンテコステです。その日聖霊が降られ、教会が誕生しました。


1,共に集まる

ペンテコステの日に弟子たちはどうしていたでしょうか。彼らは集まっていました。彼らは何をしていたでしょうか。おそらく祈っていたことでしょう。「心を合わせ、祈りに専念していた」のです(使徒1:14)。彼らは主イエスの約束を待ち望んでいたのです。それはもう一人の助け主―聖霊が来られることです。そして、聖霊は力を与えて下さる。そのことを期待していたのです。その時に不思議な現象が起こりました。「激しい風が吹いてくるような」とあります。風は聖霊を象徴するものです(ヨハネ3:8)。それは彼らのところに聖霊が来られたことの一つの表れでした。
そしてもう一つのことは炎のような分かれた舌が現れることが起きました。炎は神の臨在を現します。モーセが見た燃える柴もその一つです。神は一人一人の上に臨まれました。炎は焼き尽くす火です。神に喜ばれないもの、忌み嫌われるものを焼き滅ぼし、ことごとく取り除かれるのです。そのことが一人一人に起こりました。


2,聖霊に満たされる

聖霊は神様ご自身です。肉眼では見えません。風と同じです。しかし、その働かれることは人を通して見ることが出来ます。聖霊は人格です。私たちの心に、思いに、行動となって現れます。ちょうど、木が風になびいて動くのと同じようなことです。
そして、なぜ舌が現れたのでしょうか。語るためです。何を語るのでしょうか。「神の大きなみわざ」(11節)です。神の大きなみわざとは、イエス・キリストが十字架に死なれ、死の中からよみがえられたことです。すなわち私たちに対する罪の赦しと、永遠のいのちを与えて下さることです。これが神の大いなるみわざなのです。
 そのために、一人一人に聖霊は臨まれました。炎となり舌となって、彼らを通し、救いを語らせるためです。ですから、彼らはめいめい他国の言葉で話しました。それは、全世界の人が神の救いを知るためです。そのために彼らは他国のことばでしゃべりました。おそらく、ガリラヤの人ですから外国語を学ぶ機会はなかったでしょう。それでも話すことが出来たのは奇跡であり、神のみわざであったのです。神様は無学なただの人でさえも「聖霊に満たされる」なら話すことが出来るのです。
聖霊に満たされるとは特別なことです。神の奉仕をするときにこの「満たされる」という言葉が使われます。ペテロも神のみことばを語るとき、聖霊に満たされて語りました。私たちもまた、神の奉仕にあずかるとき「聖霊に満たされる」必要があるのです。そして、奉仕を通して「聖霊の満たし」を体験できるのです。なぜなら奉仕の力は人にあるのではなく、聖霊にあるからです。聖霊が働かなければ神のみわざはなされません。聖霊によらなければイエスを主と告白することも信じることも出来ないのです。ですから、信仰のみわざはすべて聖霊によるものなのです。
ここでも、彼らは「聖霊が話させてくださるとおりに」することによって他国のことばで話し出したのです。神の大きなみわざを語ったのです。私たちも聖霊に満たされるなら、神のみわざ、神様の喜ばれる奉仕をなすことが出来るのです。


       (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)