柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「悔い改めと祝福」ルカ15章21-24節

この箇所は、聖書でも有名な放蕩息子の話です。神様は私たちを愛して下さり、受け入れ素晴らしい恵みを与えて下さることが語られています。


1,放蕩息子の悔い改め

この話をされたのは、イエス様が取税人や罪人を受け入れて食事まで一緒にされるのをパリサイ人や律法学者たちが不満に思っていたからです。なぜなら、彼らは悪いものは幸せになれない、悪の報いを受けるべきだと思っていたのです。ところがイエス様は、決してそうではない、たとえ悪を行ったとしても心を入れ替えて、帰ってくるなら神様は必ず愛して下さり、その人を幸せにして下さるのだと言うことを話されたのです。ここに出てくる父が神であり、弟息子は私たちをたとえて言っておられます。
弟息子は、自分勝手で、厚かましく自分から遺産の分け前を求めました。もちろん父親は断ることが出来たのですが、なんと分けてやりました。気前が良いというか、息子を愛するが故のことであったと思います。ところが何と、息子は荷物をまとめて出て行ったのです。おそらくは感謝の心も、満たされた思いもなく、ある意味傲慢で自尊心を高くして出ていっただろと思います。
遠い国に行き、放蕩して財産を使い果たしました。しかも、大ききんが起こり、食べるのにも困る有様でした。ついには豚飼いに身を落とし、だれもあわれみをかけてくれる者はいなかったのです。
その時に、彼は自分の本当の姿に返ったのです。それは父のもとに帰るということでした。父のもとに帰ると言うことは、私たちにとっては真の神様、私たちを造って下さった方のもとに帰るということです。私たちは神様によって造られ、私たちは愛される者としていのちが与えられたのです。


2,神様の祝福

その放蕩息子が帰ってきたとき、父親が先に見つけ彼を抱きとめ口づけしました。それは何よりも、息子を愛する親の姿であるのです。それと同じように、神様は私たちが離れて罪を犯し、落ちぶれて惨めなものとなっても帰ってくるなら抱きしめ愛して下さるのです。
しかも、それだけでは終わりませんでした。最上の服をもって着せました。それは、息子としての資格があるということの証明です。たとえ身は汚くても、最上の服を着るにふさわしものであるとみんなに示されるのです。指輪は、息子としての権威を現します。契約の時に判を押しますが、まさにそのことを象徴しています。そして、靴を履くことは、奴隷でなく子であり主人であることを意味しています。そのようにして放蕩息子は受け入れられ、初めて愛がわかったのではないでしょうか。
食べるものもなく、どん底生活に陥りだれも助けてくれない。彼は、惨めさをいやというほど味わいました。そして、彼は心を入れ替え、父のもとに帰っていくときに、その愛とあわれみがわかったのです。
豊かなときにはわからない愛が、試練を通して、苦しみを通してわかることがあるのです。そして、死んだものが生き返り、いなくなったのが見つかったと父は喜びましたが、私たちも神様の元に立ち返るときに神様は私たちを喜んで下さるのです。そのことを私たちは神様とお互い共に、感謝しようではありませんか。


           (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)