柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「あわれみの器」ローマ人への手紙9章19-24節

私たちはときおり、自分の能力が低い、自分はだめな人間だ、なんで自分はこんな人間に生まれてきたのか、と過小評価してしまうことがあります。しかし感謝な事に、私たちの人生は嘆きでは終わりません。神様は私たちをその空しさから救いだして下さり、私たちに素晴らしい将来を与えて下さるのです。


1,神の主権
 私たちは自分の意思で、この世に生まれてきたでしょうか。全くそうではありません。聖書には、人間が神様によって造られた。さらには神のかたちに似せて造られたとあります。人間は特別な存在です。
 そして神様は、ご自身の意思を持って私たち人間を造られました。ちょうど陶器師が陶器を作るようにです。陶器には色んな形があります。皿もあればカップもあります。しかし、陶器が陶器師に向かって何でこんな形に作ったのかと文句を言うことは出来ません。すべては神様の計画があって目的を持って造られてものです。
 私たちも、なぜ造られたのか。神様は私たち一人一人に目的を持っておられます。


2,あわれみの器
 その鍵となる言葉が、「あわれみ」です。この章でも、あわれみという言葉が何回も出て来ます。特に、23、24節にはあわれみの器とあります。器は必ず中身が必要です。そのために器が作られます。尊いことに用いられたり、卑しいことに用いられる器があります。
 コリント書には「土の器」という言葉もあります。外側でなく中身は何かが重要です。
 そしてここでは、「滅ぼされるべき怒りの器」も出て来ます。私たちは、以前はどうだったのか。寛容があり忍耐があっただろうか。むしろ、気が短く怒りやすい、まさに怒りの器であったのではないか。滅ぼされるべきものであったのです。
 ところが、神様は忍耐深く、豊かな寛容を持って、私たちをあわれみの器として、造り変えて下さる方です。エレミヤ書18章には、陶器師が粘土をこねて器を作ることが出ています。そして自分の思うように作り直すことが出来るのです。
 私たちも神の御手にあって造り変えられることができるのです。それこそ滅ぼされるべき「怒りの器」が「あわれみの器」として召される、選ばれるのです。それはヨハネ15:16に「あなた方が私を選んだのではない、わたしがあなた方を選んだのである」とキリストは言われ、私たちが実を結ぶためであると説いておられます。
 神様は私たちを、ユダヤ人異邦人の区別なく選ばれ、「あわれみの器」として下さるのです。
 私たちは、土の器に過ぎないものですが、あわれみの器には神の栄光があります。神の栄光とは十字架の栄光であり、私たちは十字架によって、罪が赦されたのです。十字架によって古いものは過ぎ去り、新しい人生が始まることを感謝できるのです。
 何よりも、神様の憐れみによって生かされるものでありたいと願います。


(宣教者:柏原教会 西本耕一牧師)