柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「父の訓練」ヘブル12章4-11節

6月第3日曜日は父の日です。父の日も由来は教会から始まったと聞いています。何よりも、父と母を敬うことは神様自身も人間に命じておられる大切なことです。
今日は父の訓練という題で、4節から11節の所を語ります。聖書で父といえば、父なる神様が連想されるのではないでしょうか。9節10節に「霊の父」とありますが、天の父、父なる神様をさしています。私たちは父なる神様によって造られ、今生かされています。時には大変な試練も出てくるのですが、それもまた大切な意味があることが分かります。


1,子としての訓練

神様がこの世界を造られたのに、どうして悪いことがあるのかと尋ねられることがあります。その最大の原因は「罪」の問題があります。罪とは、神に逆らい、従わない、自分勝手に振る舞うと言うことです。そのことによって、人間は神様から受けるべき祝福・幸いを逃してしまっているのです。しかし、試練に遭うときこそ、信仰が必要です。信仰の目が開かれるとき、試練もまた益であることが分かります。神様は私たちを子として訓練されることが分かります。
神様は祝福の神様です。試練を与えられると共に、逃れる道をもまたそれ以上の喜びを私たちに与えて下さる方です。なぜ訓練をされるのか、試練を与えられるのかそれには目的があります。理由があります。


2,聖さに与る

10節に「聖さにあずからせ」とあります。私たちを聖くして下さる。私たちは、罪に汚れて神を認めない、分からないものでした。そして、永遠のことも考えず、この世のこと、自分のことしか考えられない者でした。ところが、神のあわれみにより救いにあずかり、神のことが分かる、永遠のことすなわち死んだ後のことも分かる、そのようになったのです。それは新しいいのち、永遠のいのちが与えられたからです。私たちは、神の子どもとして生きるようになりました。ですから、神様は私たちを私生児として扱われるのではなく、自分の子として扱われるのです。イエス様も神の子でした。しかし、ゲツセマネで血の汗を流して、私たちのために祈られました。そして、父なる神様に従われて、十字架の死に至るまで従順であられたのです。その死によって、私たちは救われたのです。そのことを忘れてはなりません。ですから、4節には「罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがない」と出てきます。どれほど私たちは、自分の中にある罪、解決されていない問題に、苦しむほど、血を流すほど罪に抵抗し、血を流し戦ったでしょうか。神の聖さとは、罪に対する戦いであり、勝利です。イエス様はゲツセマネで戦われ勝利されました。そして、喜んで私たちのために十字架に死なれたのです。


3,訓練の結ぶ実

そして、神様は私たちに素晴らしいものを与えて下さいます。11節にある、義の実―平安を与えて下さるのです。この平安は世が与えるものではなく、キリストが与えられる平安です。その平安は揺るぎません。そして、御聖霊によって心の中にしっかりと与えられます。義の実とは、キリストの十字架によって義とされたということです。律法を守って義となったと言うことではありません。キリストが十字架にかかって、罪を赦して下さったという義です。私が自分の力で義となったのでなく、十字架で罪が赦されて義となった、恵みの義、憐れみの義なのです。そこに平安があります。子としての喜びがあるのです。


              (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)