柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「あわれみを与える神」 イザヤ書 30章15∼18節

 今日は、召天者合同記念礼拝です。天にお召されになった方々を偲びつつ私たちに永遠のいのちを与え、天に希望を持たせてくださる方に目を向けさせていただきたいと思います。

 イザヤは2750年ほど前のユダヤ預言者でした。イスラエルの国は今も小さく四国ほどの面積です。北のアッシリア南のエジプトに挟まれ、国が滅ぼされるかもしれない状況にありました。私たちも困難に遭ったときに誰に頼るべきか明らかにされます。


1,神に立ち返る


 イスラエルの聖なる方、神である主は「立ち返るなら、あなたは救われる」と約束されました。

 この事は、新約聖書ルカの福音書15章に出てくる、放蕩息子の話に通じるものがあるのではないかと思われます。裕福な家庭の次男は、父親から生前贈与を受けて大きな町に出かけました。しかしまじめに働かず、財産を湯水のように使い、一文無しになりました。誰も助ける者はいませんでした。ついには豚のえさを盗んで食べるまで落ちぶれてしまいました。

 その中で彼は、我に返り、父親の家にはたくさん食べ物がある。父の元に返ろう、そして神様に対してもお父さんに対しても罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてくださいと謝ろう。そう決心して父親の元に返ったのです。

 なんとイザヤは2700年以前も前に、すべての人は真の神様に立ち返るべきと教えていたのです。その時の状況も、北のアッシリア帝国 に攻め滅ぼされると注意をしていました。しかし、そのことに真摯に耳を傾ける人は少なかったのです。今日も同じではないでしょうか。


2,人の罪


 イスラエルの民は神に助けを求めるのではなく、人を当てにし、人の助けを求めました。南のエジプトに応援を求めたのです。馬という言葉は、軍隊の力を表すと言われています。エジプトの軍隊を当てにし、苦難から逃げようとする姿があります。しかし、それは勝利にはなりません。

 いくら逃げても追っ手が来る。ついには山の旗ざお、旗のようになる。つまり、それを立てた人は一人もいなくなったと言うことです。この世の力、権力におもねる人は、この世がすべてです。この世はやがて滅びてしまいます。

 私たちは、この世に希望を持つものではなく、未来に、そして永遠に希望を持つものでありたいと思います。


3,神は待っておられる


 「それゆえ主は、あなた方に恵みを与えようとして待ち」とありますが、神様は私たちを天国で待っておられるのです。この世で滅んでしまうことを願ってはおられません。あの放蕩息子は父のもとに帰りました。それは一つの天国の姿です。ぼろぼろになって帰ってきた息子を父は抱きしめました。ずっと待っていたのです。父親は見つけたとき、立ち上がり走り寄ったのです。最上の服を持ってきて彼を包み込みました。まさにあわれみです。

 私たちも真の神様に立ち返るなら、待っておられます。そして私たちに駆け寄ってくださり抱きしめてくださいます。そして私達の顔から涙をぬぐい去ってくださいます。

 それは私たちが不真実でも神様は常に真実だからです。神様の真実とは、たとえ私たちが罪を犯しても赦して下さる。神の儀すなわち十字架の救いがあるからです。

 私たちも神様に愛され、心に平安と恵みをいただいて、天の御国に凱旋させていただきたいと思います。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)