柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「終わりの日の希望」使徒2章17節

先頃、ニュースで関東に雹が降り1メートル以上も積もったと言っていました。まさに異常気象であり、いろんな面で終わりの時が近づいていることを思わせられます(マタイ24章)。
それでは終わりの日は希望がないかというと全くそうではありません。むしろ、イエス・キリストを信じる者にはたとえ艱難があっても希望がある。艱難に勝る大いなる希望を私たちは聖書から知ることができます。


1,聖霊が注がれる

ペテロは旧約聖書ヨエル書を引用して語りました。ガリラヤの漁師であった、しかも死を恐れていたような人たちが大胆に語るのを見て、酒に酔っているのだとあざける人たちもいたので、彼は酔って話しているのではないことを証明するためにもユダヤ人たちが知っている旧約聖書から話をしました。
ヨエル書はおそらく紀元前800年頃、南ユダ王国で活躍した預言者ヨエルによって記された書物であろうと言われています。ユダヤの国は分裂し、やがて大国に攻め滅ぼされる危機を迎えるのですが、ヨエルを通し、神様は真の復興を語られたのです。
そのメッセージは、信仰の復興とメシアの来臨に関わるものですが、その起点は神の霊すなわち聖霊がすべての人に注がれるところから始まるとヨエルを通して語られたのです。
そのことが実は、ペンテコステの日に起こりました。弟子たちに注がれ、さらに多くの人たちが聖霊に満たされて神の言葉を語るものとなっていったのです。
旧約の時代にも聖霊のそそぎはありました。しかし、それは限定された特別の人たちだけでした。王や祭司、預言者といった特別な人たちしかありませんでした。ですから、すべての人に注ぐとは驚くべきことであり、まさに神の御業以外の何ものでもありません。


2,聖霊の御業

それでは、聖霊が注がれるとどうなるのでしょうか。まず第一のことは、息子娘が預言をすると言うことです。預言とは何か、神の言葉です。息子娘が神の言葉を語るようになると神様は約束されました。
それもまた、不思議なことです。御言葉を語るためには、御言葉を受けなければなりません。神の言葉が与えられることは、まさに聖霊によるものです。ペンテコステの日に、弟子たちが他国で語りましたが、彼らは外国語を勉強しませんでした。訓練も受けませんでした。しかし、御霊が話させてくださるとおりに彼らは話し出したのです。
私たちは、神の言葉―聖書を語るのがおっくうです。なかなか人には言えません。それはまさに霊的な働きであるからです。人の力に頼るのではなく、神に頼る、聖霊の導きと助けが必要であると言うことです。しかし、聖霊が働かれるなら、神様は私たちをもまた、大胆に御言葉を語るものとしてくださいます。私たちはそのことを信じ、また祈らなければなりません。「私に神の御言葉を語らせてください」と。
そして、もう一つ不思議なことは、「青年は幻を見、老人は夢を見る」と言うことです。最近の若者にはビジョンがないとよく言われます。ほとんど自分のことしか考えない若者が多くなっているようです。旧約聖書箴言には「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。(29:18)」とあります。ビジョンがないと一致しない、ばらばらになってしまう。そうならないためには、神様からビジョン幻を与えられることです。そのためには、聖霊の注ぎが必要であると言うことです。使徒の働きには「聖霊に満たされ」と言う言葉がよく出てきますが、私たちも聖霊に満たされなければならないのです。そのままでは、むなしいもので終わってしまうからです。しかし神様は、必ず聖霊の注ぎを与えると約束されたのです。それを信じるか否かは、私たちの信仰にかかっています。
さらに老人にも希望があります。「老人は夢を見る」のです。ビジョンはこの世で素晴らしいことが起こることを期待するものですが、夢とはさらに先のことです。天国のことです。天国に入れる素晴らしい夢を神様は老人に与えてくださるのです。旧約聖書伝道の書12:1に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」とありますが、イエス・キリストを信じたら希望が与えられます。天国で生きるという希望です。私たちの体はよみがえります。朽ちてしぼむ肉体から、朽ちずしぼまず永遠に輝いている栄光の体によみがえると神様は私たちに約束しておられるのです。それが終わりの日の希望です。
私たちはもはや、むなしいこの世の希望に生きるのではなく、永遠のいのち、復活のいのちに生きることを夢見て、さらに神の御言葉が語られるビジョンを見せていただいて生きるものとさせていただきましょう。

       (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)