柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「信仰の望み」ピリピ3章1-9節

もうすぐクリスマスです。クリスマスはすべての人にとって喜びのときです。喜びは大切なものです。旧約聖書のネヘミヤ記に「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という言葉があります。喜びはまさにクリスチャンにとっては力です。クリスチャンから喜びがなくなると信仰が弱くなります。それではどのようにして私たちは喜びに与ることができるでしょうか。

1,御聖霊により礼拝する
 第一に神を礼拝することです。私たちはいま、礼拝に出ています。3節には御霊によってとあります。礼拝は私たちの思いや願、努力によって礼拝するのではなく、御霊すなわち御聖霊によって礼拝するのです。イエス様はサマリヤの女に「神は霊であるから、礼拝する者も霊とまことを持って礼拝すべきである」と言われました。私たちは欠けだらけであり、全能の神を礼拝するにはふさわしくない者です。土の器にしか過ぎません。しかし私たちは、器である自分ではなく、自分の内に居られる御聖霊によって礼拝することが可能となります。それは私たちが、祈るとき、私たちよりも聖霊が祈らせてくださる。聖霊の助け、導きを頂いて神様に、アバ父よと祈り、近づいて行くことができるのです。それは不思議であり、恐れ多いことではありますが、私たちは御聖霊により導かれて、神に近づき神を礼拝できるのです。
 「主よみもとに近づかん」という賛美歌がありますが、私たちは汚れ罪深い土塊の器にすぎないものであっても、内にいます御聖霊の助けを頂き、神を父よと呼び、近づくことができるのです。
 そして、キリスト・イエスを誇りとし、とありますが、その誇りは、栄光と訳される言葉です。キリストの栄光とは何か。十字架によって罪が赦され、キリストの復活によって新しいいのちに生きる、天国市民となった―神の相続人とされたと言うことです。
 パウロも、私たちも救われる以前は、滅びに向かって行きました。神の栄光すなわち、天国に入るにはふさわしくないものであったのです。もちろん、パウロは私たちよりも遙かにすぐれた人です。彼の誇るべきことは、5,6節に7つ出ています。ところが、それらは全く価値のないものであることがパウロには解ったのです。それは復活のイエス・キリストに会ったからです。

2,キリストを信じる素晴らしさ
 彼は何が解ったのか。それはキリストを信じる、ただそれだけで義と認められることが解ったのです。それまでは、律法を守らなければならない。間違ったことをしてはいけない。立派な人になるのだ。と努力していたのです。しかし、彼は疲れました。それは彼の心に喜びがなかったのです。心の燃え尽き症候群でした。彼の心はいらつき、焦り、そして将来に対する絶望感でいっぱいでした。この悩みはだれにも言うことができなかったのです。しかし、神様はご存じでした。それで、彼が迫害する途上でイエス様は会われたのです。そして彼は、イエス様の愛が解りました。キリストの栄光が解ったのです。それは、十字架によって罪が赦され、復活による永遠のいのちの喜びです。彼はそれをイエス様の内に見いだすことができたのです。ですからその喜びはたとえようもありません。7つの特権は、7節にあるように、キリストのゆえに一切を損と思った。いや捨てたとはっきり言っているのです。
 それ以上に、9節にある、キリストの中にある者、すなわちキリストの愛に包まれて生きる者とされた。そしてやがて、死んで神様の前に立つときに、義とされる。十字架によってすべての罪は赦され、「あなたは天国を受け継ぐにふさわしい」と喜んで受け入れられる者となる。その希望が与えられたのです。それ故彼は、牢獄の中にでも喜ぶ者となりました。私たちも同じ信仰を与えられて、信仰によってパウロと同じ希望を持って生きる者とさせていただきましょう。

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)