柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神のちから」使徒4章9-14節

ペンテコステの日以来、神の救いの業はどんどんと広まり前進していきました。その原動力はどこにあったのでしょうか。


1,キリストの名による力

エス様の弟子であったペテロとヨハネエルサレムの神殿に上る美しの門というところで生まれつき足の不自由な人に出会いました。その人は運ばれてきて、門の所で物乞いをしていたのです。ペテロとヨハネがその人を見て「ナザレのイエスの名によって歩きなさい」と言ったときにその人はたちまちいやされ、歩き出しました。その人は喜びと賛美に満たされて、はねたり跳んだりして歩いたのです。すると人々は集まりペテロは、救い主キリストを語り、その日信じた人は男だけで5000人もいたのです。
そのことの故に逮捕され、取り調べを受けました。しかしそれはまた、彼らの証しのときとなったのです。私たちも苦しみを受けるとき、神の真実が証しされるときとなります。そこで本物かどうか真実が証しされるのです。
彼らが証ししたのはまさに十字架に付けられ死の中からよみがえられたキリストでした。(10節)そしてキリストの御名によって、生まれつき足の不自由な人がいやされ喜びと賛美に満たされて歩いたのです。
そのキリストはまさに捨てられた石でした。人々はピラトのさばきのときに、「十字架に付けよ」と騒ぎ立て、代わりに「大罪人のバラバを釈放せよ」と言ったのです。しかしキリストは死の中からよみがえり、死に勝利していのちを与えられるものとなられました。そして約束のもう一人の助け主、聖霊ペンテコステの日に弟子たちに降り、彼らは力を受け大胆に復活のキリストを宣べ伝えたのです。
そしてまさにキリストは礎の石です。私たちの人生の土台になって下さる方です。キリストは私たちの罪を引き受け、その呪いを十字架の上に受けて身代わりに死んで下さいました。しかし、復活の新しいいのちをもって死の中からよみがえられたのです。ですから、私たちもキリストを自分の人生の土台とするなら、いつも十字架によって赦され愛され、自分を傷つけるものさえも私たちは十字架の力により、愛し赦すことが可能の人生に変わるのです。なぜなら新しいいのち、永遠のいのちに生きるものとなったからです。


2,大胆に生きる

ペテロとヨハネは、サンヒドリンの会議に出されました。その会議のメンバーはユダヤの指導者の最高会議いわば日本の国会にあたる所でした。構成員は24人の祭司、24人の長老、22人の律法学者からなる最高会議です。その会議に引っ張られて来たのはガリラヤ生まれの漁師ペテロとヨハネだったのです。彼らは特別の学問もない無学な普通の人であったのです。
福音を語るのに特別な知識や能力は必要ありません。普通の人でも語ることはできます。
その昔アメリカの大衆伝道者ムーディーはある人から「君の説教には文法を外れた言葉が多くある」と指摘されましたが、彼は「私もそれを知っている。改めたいが、しかしながら文法をよく知っている人がイエス様のためにどれほど福音を語っているだろうか」と問い返した話があります。言葉の能力や文法も大切ですが、それ以上のものがあります。それは神のちからです。あの二人は「イエスとともにいた」ことが会議に集まった者たちにもわかってきました(13節)。私たちもイエス様と共にいることで変わってくるものがあります。
それは大胆さと言うことです。サンヒドリンの会議の70人は驚きました。無学なただの人が大胆に語れると言うことです。大胆とは、公然と、人をはばからない、恐れないと言うことです。彼らは恐れることなく自由にキリストを証ししたのです。それは疑いもなく、彼らの心は喜びと確信に満ちあふれて語ったことを実証するものでした。それはまさに人の知識や知恵、学問や勉学の賜物ではありません。もう一人の助け主、聖霊によるものです。
イギリスロンドンの貧民街で救霊の働きを始めたウイリアム・ブースはある人から「あなたの働きは祝されてますます大きくなりますが、働き人はどこから得られるのですか」と尋ねられました。すると彼は通りの向こうに見えた居酒屋を指して、「たぶんあそこから」と答えたそうです。果たしてその言葉の通りに、無学な労働者、ただの平凡な居酒屋にたむろしていた人々の中から救われる者がおこり、彼らは変えられ、多数の有力な働き人、奉仕者となったのです。それはまさに神のちから、聖霊の働きでした。


             (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)