柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神を喜ぶ」ローマ5章8-11節

私たちは神様を見ることはできません。しかし、心を静めて頭を垂れ目を閉じて祈ることはできます。その中に、「神様がおられるなら示して下さい」と祈ることができます。祈り求めるなら、神様は必ず私たちに御自身を現してくださいます。


1,神の愛

私たちには、人に言えない悩みや苦しみがあります。そんな私たちに神の愛が必要です。そして、それはお仕着せの愛や、義務的な愛ではなく、無償の愛であり惜しむことのない愛でなければなりません。
キリストの愛は、まさにお仕着せや義務の愛ではありません。なぜなら、2000年も前に私たちが信じる以前に表された愛なのです。私たちには何の関わりもありませんでした。しかし、不思議なことです。そんな昔に生きていたキリストが、今の私たちに大きな影響を与えられるのです。


2,私たちのための代価

なぜ影響があるのか。それは、十字架が象徴しています。キリスト教のシンボルは十字架です。十字架は惜しみない愛を現しています。元は死刑の道具でした。国に害を及ぼさせるような重罪犯や奴隷が、生きたまま十字架に釘付けにされて放置され殺されました。あまりにもむごたらしいので、廃止されました。神の御子イエス・キリストはまったく罪を犯されなかったのに嘘の証言を立てられ、裁かれました。罪が認められなかったのに「十字架に付けよ」との多数の声に、総督ピラトは負けて十字架刑に処したのです。それでも、キリストは十字架を拒まれませんでした。そして「彼らをお赦し下さい」と祈られ、いのちを捨ててくださったのです。
十字架で血を流すことは、大きな痛みであり苦しみです。気絶するほどのものです。しかも裸にされ、むち打たれ瀕死の重傷を負ってさらしものにされたのです。それは、私たちが受けるべき、罪の報いでした。私たちが神の前に裁かれ、受けるべき苦しみをイエス・キリストは十字架の上で負ってくださり死なれたのです。
しかもイエス・キリストの血には、私たちを癒す力があります。私たちの心をきよめ悪から遠ざかり、罪に打ち勝つ力があるのです。


3,和解の恵み

10節に「神と和解させられた」という言葉が出てきます。あの十字架の上で、神の怒りが解決しました。私たちの受けるべきすべての罪・咎の報いをイエス・キリストは受けて下さったのです。その事を信じるなら私たちは赦され、神と和解することができるのです。それはすなわち、神からの豊かな祝福に預かることを意味しています。神の究極の祝福は何でしょうか。それは食べるものや着るもの、住むところのことではありません。永遠のいのちです。10節には「彼のいのち」と出てきます。すなわち、復活のいのちです。死んで甦る、もう二度と滅びに行かない永遠のいのちに私たちは与るのです。
さらに、かつては神を呪っていた私たちですが、キリストの十字架の故に、神を大いに喜ぶものと変えられます。神様に感謝を献げるものとなるのです。それぞれの空しかった人生から、救いの主キリストをほめたたえ喜ぶものと私たちはされるのです。そして、私たちは教会で礼拝をするのです。礼拝とはすなわち私たちを救って下ったキリストをほめたたえ喜ぶことです。それが、礼拝の第一の目的です。そして、更に私たちは、この礼拝を通して祝福に与る、すなわちキリストのいのちに満たされるのです。礼拝は義務でもおきてでもなく、ただ神の祝福に預かる恵の手段です。
あのホーア先生のライフメッセージは何だったでしょうか。「汝ら神と和らげ」―神との和解だったのです。私たちはキリストの十字架によって、父なる神様と和解できます。神様から無限の祝福をいただき、神を喜ぶものとなることができるのです。

           (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)