2月は一年でも最も寒いときだと思います。特に今年は例年になく大雪が降っています。2月4日は立春でしたが早く春が来ないだろうかと待ち遠しいときです。私たちの人生にも、冬の大嵐のような試練が来るときもあります。しかし、神様は私たちが試練を乗り越えるものとして下さいます。
1,神の願い
神様は、私たちの心の内に働かれる方です。神様が私たち人間に願っておられることは何でしょうか。私たちがよい行いをしたり、人から尊敬される人になって欲しいと願っておられるのでしょうか。聖書には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(?テモテ2:4)とあります。
第一のことはまず、永遠の滅びから救われることです。私たちはやがて死ぬことがあります。死んでしまったらいったいどこに行くのでしょうか。「すべての人は、一度死ぬことと死んだ後裁かれることが定まっている」と聖書は言っています。それであるからこそ、人は死ぬことを恐れるのではないでしょうか。死んでしまったら、永遠の滅びに行ってしまうかもしれない、地獄に行ってしまうのではないかと恐れるのです。
だからこそ、神様は救い主であるイエス・キリストを私たちのもとに遣わされました。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とヨハネ3:16にあります。
そしてもう一つのことは、勝利あるこの世の人生を生きることにあります。
2,神の御業
この世はすばらしいものでしょうか。おそらく多くの人はこの世は素晴らしくない、あの世が素晴らしいのなら、早くあの世に行きたいと思う人もあるでしょう。明治の文豪、夏目漱石も「知に働けば角が立つ、情にさおさせば流されるとかくこの世は住みにくい」と言ったように、この世は住みやすいものではありません。その原因は、聖書を見ると「罪」にあることがわかります。神様は最初、この世を素晴らしいものとして創造され、人間にすべてを任せられましたが、その人間が神様に背いたのです。神に対する不従順、自己中心的な思いがこの世を堕落させ、滅びに至るものとしてしまったのです。
それ故、人間は苦労し、またいくら一生懸命働いても報われないものとなってしまったのです。私たちは自分の通りにことが進まないと、つぶやきや疑いが心の中に現れます。そして、その思いがますます自分を暗くし、苦しめるのではないでしょうか。
そのような私たちを、明るくするためにイエス・キリストは来られたのです。16節に「世の光」という言葉が出てきます。私たち自身は世の光ではありません。実は、イエス・キリストが世の光なのです。それは、ヨハネ8章12節で「わたしは世の光である」と言われました。キリストは罪を犯して、裁かれ殺されるべき一人の女の人を救われました。それが、キリストの救いの御業です。私たちは、自分の犯した罪や過ち失敗で悩むことがあります。それが、私たちの現実です。そして、心がみじめになり空しくなります。
キリストは、私たちの心の中に来てくださり光となって、私たちを明るく輝くものとして下さるのです。
3,ビジョンに生きる
神の御心は何でしょうか。「すべての人が救われる」ことです。そして、私たちは永遠の滅びから、そして心の空しさから救われることができます。15節に「非難されるところのない純真な者となり」とありますが、それがキリストの御業です。それは、十字架の血潮によって私たちの魂の罪・汚れが洗い流されて純真な者となることができるのです。
私たちはきよくなることが可能です。どのようにしてできるのでしょうか。それは、御言葉によってです。いのちのことばをしっかり握るなら、私たちは十字架の血潮によってきよめられ、内に生きてくださるキリストによって世の光として輝くことができるのです。
御言葉を握らせて下さるのは、聖霊なる神の力です。聖霊が働かれるとき、私たちは心の中にしっかりと神のことばを握ることができるのです。私たちはまず、その確信を与えていただきたいと思います。そうするなら、私たちは世の光であるキリストが心の内に働かれ、私たちを明るくし、そして周りを照らすものとなることができるのです。
私たちは、神様が願っておられること、すなわち神のビジョン(すべての人が救われること)を内にいただいて、そしてこの世に生きるものとさせていただきましょう。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)