柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「新しい生活」ローマ12章1‐2節

あけましておめでとうございます。年が改まり2016年最初の主日礼拝、新しいスタートとなります。


1,神のあわれみのゆえに

ローマ人の手紙前半は、救いについての教理的なことが記され、後半から実践的なことが語られています。
ここでは、礼拝について勧められています。私たちは今、礼拝をしています。実はこれが一番根本的なことなのです。クリスチャンとしてこの世に生きるためには、この礼拝を欠かすことは出来ません。いわば、礼拝に出席することが私たちの霊的いのちを左右すると言っても過言ではありません。礼拝に出なくなると霊的に死んだものとなってしまうのです。それほど、礼拝は私たちにとっては大切なものであるのです。
パウロは「神のあわれみのゆえに」と言っています。神のあわれみがなければ私たちは救われませんでした。罪の赦しもなければ、天国に入る望みもなくなったのです。しかし、イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかり、すべての罪を赦して下さいました。そして、死の中から復活されて私たちに新しいいのち、天国で生きることを約束されたのです。
そして、このところで彼は私たちに大切な礼拝を勧めているのです。それは受け身の礼拝ではなく、むしろ積極的な礼拝を勧めています。私たち自身の体を生きた供え物とすると言うことです。ただ単に心や思いを献げるとか、考えるというだけのものではなく、自分の体を献げる、実体を伴ったものとして自分自身を献げることです。私たちは、思いだけではなく、自らの体を献げて、神様を第一として自分をささげて神様に喜ばれるものでありたいものです。


2,自分が変えられる

私たちは、この世に生きていますが、この世のものはやがて滅びます。しかし、イエス・キリストを信じる者は滅びません。なぜなら、復活のいのち永遠のいのちにあずかり、この世と共に滅びるものではなく、新天新地で生きる者とされているからです。
ですから、私たちはこの世と同じように生きる必要はありません。自ら神によって生きることを確信して生きるべきです。私たちの生き方は人に喜ばれる生き方ではなく、神に喜ばれる生き方、十字架にかかって私たちの負債を払って下さったイエス様が喜んで下さる生き方をすることです。私たちはもはや、罪にとらわれて生きるのではなく、罪から解放され自由となって生きる生き方です。
ダビデは素晴らしい王様でした。ところが姦淫の罪を犯し失敗したのです。彼は苦しみもがきました。そして、何が神様の喜ばれる献げ物かわかったのです。それは、自分の砕かれた霊、砕かれた、悔いた心を神は蔑まれない(詩篇51:17)ことがわかったのです。彼は、神の前に衣を裂き、自分の罪を告白して赦しを求めました。彼は赦され、大いなる祝福・栄光に預かったのです。
「わきまえ知る」とはまさにそのことです。金がるつぼに入れられ、熱せられ、とかされてカスが取り除かれ純金になるように、私たちは試みにより、心のカスが取り除かれて純粋な神様の喜ばれるものとなることが出来るのです。
そして私たちは、心の一新により、新たに変わることが出来ます。変えなさいという言葉は、変貌を意味します。ちょうど毛虫が蝶になるようにまったく変わることです。それはどのようにして出来るのでしょうか。イエス・キリストを信じることです。キリストを信じる信仰によって、心の一新によって私たちの生き方が変わるのです。新しい、神をレ理拝する生活になることが出来るのです。


         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)