5月5日はこどもの日です。聖書にもイエス様の子どもの頃が紹介されています。
1,神の宮でのイエス様
12歳の時、過越しの祭りのときに両親と共にエルサレムに上られました。イスラエルでは13歳から成人として受けいられ、それまでに必要な知識を身につけることになっていました。その当時は、宮で知識を学ぶことがありました。祭りの期間が終わって、それぞれの所に帰るのですが、イエス様の姿が見当たらなかったのです。両親はエルサレムに引き返すと、宮で教師たちの真ん中におられたのです。
しかも、教師たちはイエス様の知恵と答えに驚いていたのです。どのような話かは聖書には書いてありませんが、当時の彼らの関心は来るべきメシア救い主のことであったと思います。もちろんイエス様ご自身が救い主であり、イスラエルの期待していたメシアそのものですから、答えることは造作もなかったでしょう。
母マリアは心配して探し回ったことを告げましたが、イエス様は「父の家」にいることを話されました。もちろん、両親はそのとき理解はできませんでしたがマリアはこれを心に留めていました。
2,イエス様の成長
イエス様は、人となられた救い主です。私たちを救うために私たちと同じになられました。すなわち、人の子としてマリアから生まれ、人として成長されたのです。そのことによって、私たちの弱さや悩み苦しみを深く知って下さるのです。イエス様は思いやりの深い方です。弱いものを憐れまれ、また何よりも父なる神様を愛される方です。それ故に、神と人とに愛されたのです。
3,愛される理由
なぜイエス様は愛されたのでしょうか。エルサレムに比べ、へんぴなナザレに下られ、そして両親に仕えられたからです。ここに、イエス様の謙遜と従順を見ることができます。イエス様がこの地上に来られた目的が マルコ 10:45に記されています。「 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
また、イエス様ほど従順な方はありませんでした。ピリピ2:7〜8「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
十字架の生涯を全うされ、私たちに神の子として生きる生き方を示して下さったのです。私たちもまた、キリストの歩まれた道をたどり、神と人とに愛されるものとさせていただきましょう。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)